9 河童与吉の頓智昔あったけど。平岡生れで名前は与吉、 おつかなえ(大変)力持で、給金も二 人前もらって稼いでいた男だったど。でも きづこえ河童与吉ぁ、西郡の三五郎家さ若勢に居だごどあっど。三五郎て言えば、この 近在にはちょっと並ぶ者ないて言わった大百姓だべ。一体どの位米があるもんだ が、与吉さ聞いだどごろ、糯の籾俵で八百五十俵、粳ならなんぼあっか知んない てだど。先は西郡の三五郎家から野崎の御倉まで米俵ば並べでも、まだ余るて言 わっだほどの大百姓だったふうだ。 与吉ぁ稼ぎも良えが食の方も良くて、この方もすぐれたもんださげ、或時、旦 那まだ冷がして、「与吉働ぐなでなくて、 わっぱ ほう言わった日、なんたつもりでが与吉まだ弁当さ手つけないで あがて 与吉ぁ言うにゃ、「鍬の柄さ わっぱ この河童の与吉、後で川通り(岩木部落)の久右ヱ門の家さ若勢移たけど。 こさ 与吉がほれを聞き違えたのが、山で杭ば作て運で来たな見だけば、寸詰りの短 えものばりで、とでも稲杭になど使われそうもない。旦那が「あれほど口酸っぱ く教へでやったのに、 けちけた んだても与吉は旦那に言わった通りの寸法にきちんと揃えでこさえだなださげ、 叱る方が無理、まるで蛙の面さ水かけだて言うんだ。てんで動転しなえけど。つ まり旦那まだ坐たまんまで尺を示したなださげ、その通りの寸法だて言うなだろ。 旦那も与吉の むんつくりん 与吉ていう人は稼ぎは良えげんど、他人(ひと)にかれこれ指示されるな嫌いだ性分 だったんだな。ほださげ短い駄目な杭を四十八本の外に、長いまともな杭を四十 八本、ちゃんと別に仕立てで運で来てあったと言うことだでや。稲杭作りは一日 仕事で言えば並みの人で二十四本ださげて、与吉ぁ二人前だべさげて四十八本用 意さなんなえだおん。 まだ或時、この与吉が におぶた 「大きく かけ 与吉ぁこんど、家中奉公にあがたごとあっど。お侍が相手だから今までの旦那 達みでえに ぶんて でも一番辛(こわ)えごとて言えば、一と朝間に金山と舟形どか北と南の方角の異った 土地さ、 一どこえ 或時、与吉ぁ藩士(とのさま)ば篭さのせで、独りで担へらって出がけだじょん。三本橋の 橋の上さ来た時のごと。藩士まだ篭の中がら外をのぞこんで、「橋の下の渕には雑 魚もたんと棲(い)るだろな」て、声かけたけど。 与吉、それ聞いで待ってましたとばりに、「ご覧なさいませ」て、藩士ばのせだ ままの篭を欄干越しに高々と伸し上げて、渕の真上さ差出したどこだど。 藩士でば川ン中さ突き落されんながと思(も)て、胆冷して、とうど与吉さ手すった けど。ほれがらじゅもの、意地の悪い無理な命令はしなぐなたけじゅごんだ。 どんぺからんこ なえけど。 人に使われる者が涙三粒(なだみっつ)こぼした時(づき)は使う者も十粒こぼせ―使われる身を思いやれて言たもんだ。 |
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