6 弘法泉の由来昔あったけど。西郡じゅ所(どご)、あそごの先祖また庄内がら山越えで来て拓いた所 で、大沢村でや一番古く開げた所だじゅごんだ。んださげ、昔ぁ庄内さ抜げる道 もあたんだ。其処ば通って来たもんだが、見がけたことのない旅の坊(あど)さまが、この部落(むら)さ入って来たけど。見るも汚ならしい、まるで乞食(ほえど)にされや劣た恰好して、ポロポロ虱でもこぼれそうな様子(なり)してだけど。長居されではこっちが迷惑するじゅなで、立 寄らった家では、どんどと握飯(やきめし)握てあづけて追てやる勘定したべ。 乞食だて人間だもんだもの、どうせ恵で呉れるものなら喜ばれるようにして授 げだら良さそうなもんだ。んだども、そごの家では握飯ば朴の葉さも包まなえで、 厩の前の あお草さ混った葛の葉さ載せで呉っだどこだど。朴の葉なのなんぼだて 採てあんべども、賤(やし)めでそれば使わなえがったべちゃ。 何故(なえ)じゅごんだがな。ふしぎどほれがらじゅもの、西郡の部落の中には、葛蔓 消えで、生え繁らなぐなたど。人ば賤めた罰が当たなだろ。ほの乞食坊さまじゅ 者も、屹度ただ人じゃながったがもしんなえなや。 西郡で握飯貰た足で、こんだ小国さ出だんだな。そっから広い朴野ば通って田 郎さ出て、 まっと 道はしっかり判り易ぐ教(お)へだどもな、「待で待で、履物作てやんべ。ちょっこら 待でちゃ、草鞋ええんだが、足長だら直ぐ出来るども」て、爺さま今打った藁で 履物作てやんべどしっけど。坊さまも切角の親切だおん、有難く頂戴するごどし たろ。爺さま土間さ蓆敷いで、藁仕事さかがたべし。傍で一休みしながらいろい ろ話込んで、出来んな待ぢったべちゃ。 坊さま言うけど。「爺ンちゃん、何が不自由してる事でもなえがな」てだど。 「俺みでな乞食坊主には何一つして上げられるものないども、身の上に良えごと 授るよう拝でやるさげ」てだど。ほしたら爺さまったら、慾のない人で、今ンど こ大して不自由感ずるごともなくて、 まめ 「んだれば、家の事でなくたて、他に こげた 「そう言わっても、どうも一寸思い浮んで来ないな。でも坊さま此処(こさ)来んのに何処(どっ)から抜げて来たや」て聞いだど。どうも小国がら野さ出はて、巣子さ向かわなえ でこっちさ曲(むじ)って来たものらしいでや。 「その野の事(こん)だども、此処は小国、谷地、砂子沢、巣子、田郎と五集落(むら)の人達の共同草刈場でな。こっち大川の方がら小国川筋さ抜げる近道でもあんなだ。んで も広々とした野で、近ぐに水気のないのが困りもんでな。稼ぎ行て昼食(ひるま)しったて も呑み水さ遠いし、草刈てでも鎌の砥水ないなが不自由だじゅんだな。何処(どさ)が休 み場あったら、なんぼが助かんだが」て、爺さま日頃部落(むら)の衆達(だ)こぼしてることを思い出したどこだべ。 語てるうち早えもんで足長一足出来だどこだど。 「道の悪い所を歩ぐにゃ、足長は踏んばりきいで履き易(え)いもんだ。緒ば丈夫に作 たさげな」どて、坊さまさ履がへだれば、なんも嬉しがったが、何度も何度も手 合せ頭下げして行んけど。 ほのごとあって、幾日(えっか)も経たながったべな。不思議な事に、朴野の部落割した 真中しごろさ湧水見つけだな、な。何でもない広場がら、コンコンと泉が湧出しっ たじょん。これには場所 おべでる とごろで足長ば作て呉った爺さま、ふと思い浮(うが)だど。あん時(づき)の坊さまの仕業でながったがなど。特に坊さまに頼み事したなではながったども、何だが只の坊さ んではなえよな気がしたっけど。爺さまのもらした話も噂立つにつれで、屹度ほ れにちげえなえて言う向きも出て来たけど。とうど、それが弘法さまて言うごど なてな。ほれがら誰がつけだど言うごとなく、この泉ば「弘法泉(こもすず)」て呼ぶよにな て、今もそう言ってんだでや。 どんぺからんこ なえけど。 ほうしっと、西郡から葛ば消したなが弘法さまで、朴野さ泉湧して呉ったなも 弘法さまだな。親切に世話(めんどみ)でくった所には良えごとしてお返し、世話の悪い所に はそれだけの戒したお仁だんだな。 人は見かけだけで賤めるもんでなえ。誰さも親切してやるもんだな。 |
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