26 阿平南の話

 福島から米沢さ出かせぎに来た。稼ぎ兄んにゃが、これが非常に体格のええ、 稼ぐことなの三人前、四人前もかぜぐ人だった。んで、田何町歩と作ってるうち に奉公に来て、長年勤めて、こんどはいよいよ家に帰るというときに、そこの旦 那が、
「お前も大分長年、家さ手伝ってくっじゃし、よく稼いで呉っじゃから、お前の 望みのものは一背負いだけ呉っじぇやっから」
 て言うたど。
 体格もええから、その一背負いが大きいもんだべげんども、どの程度の力あっ かも、家の旦那だって見定めたもんでない。その約束したど。
「ああ、旦那さま、ほうか、それはありがたいもんだな」
 て言うて、
「ほんじゃ、まず。あした、あさっては行かんね、ほいつ出てから帰らせてもら うべ」
 て言うて、毎日藁打ってモトチ綯 (な) いしたど。いや、毎日それ綯 (な) った。二日ばり そして作ったのは網だど。そしてそのうちに旦那は家で稲こいでしまったべし、一 (ひと) ニョウだけ残していたそうだ。そん時に、おいとまするようになった。
「何にしっかな」
 と思って、家の旦那もみんなも見っだんだが、その朝早く起きて、そのニョウ さすっぽり網かぶせて、ほして、
「旦那さま、ほんじゃここでおさらばだ。帰らせてもらう。これ一つおもらいし て行けば、おれ、何とか食って行かれんべから」
 て、グランとかついで、スタコラ、スタコラ出 で だした。んだから豪傑というも のは、無限なもんだから、ノッソノッソ行った。ところが旦那は大困りした。種 子までとって置かねわけだ。翌年のな。
 困ったもんだから、後追いかけたていうんだ。
「アヘイナン、アヘイナン、待ってろ、アヘイナン待ってろ」
 て行ったど。ところがテンテン、テンテンと行く、そのアゴの大きいこと、ま ず旦那も追っかけらんねで、とうとう福島の庭坂まで行った。その庭坂と言うの は、この網から二把、稲を引ん抜いたとこだど。やっと網の目から手入っで、やっ と二把抜いたとこだど。ところがその阿平南は稼ぎ者で、吾妻(山)の萱平 (かやたいら) てい うとこに畠を起して、あそこに朝仕事にラッキョー畠を作ったという。そして朝 げサコ切りに行っていたとき、ふいら大きい石が出てきたもんだから、
「こんなくたまな(困った)、こんげな石」
 て言うもんで、足で蹴っぽったのが、ちょうど関(米沢市関)のどこの「立石」 まで飛んできて、立ったもんだから、そういう名になったて言うたもんだ。
(平田幸一)
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