28 熊野神社
混々たる水の流れと清き稲子の川瀬に添うて溯り、金沢の里に出で稲子原より熊野山麓に達す。わずかに通ずる細道を辿れば、一の堂宇あり、これすなわち熊野神社にして神域あまりに広からずといえども、石梯の青苔なめらかにして、古色砌面に浸潤す。仰ぎて見れば、山様姿態自ら静寂にして神々しさ伽藍担梁未だ朽ちず。古祠の面影一しほの尊厳をきわむ。そもそも当社は今を去ること千二十五年即ち大同元年桓武天皇の御宇修禅識学堪能なる徳一上人の創建にかかる堂宇にして常に捧持笈負せる熊野三所権現すなわち新宮・本宮・那智の三体を斉き祀れるものなり。その本地仏として閻負V金を以って鋳たる弥陀薬師観音の仏像は往古別当たりし北和田熊野山和光院に現今金色燦然として光りを放ち奉安せり、暫し黙想にふけり跪拝すれば堂中に一躯の仏体存す。これすなわち普門仏たる大日如来に在しまする本像本尊仏なり。その彫刻たるや刀法□((一字不明))邁にして調和整備せり、しかして如来の面想は真に典雅にして円満具足なり。鎌倉末期より南北朝時代の作たるを疑わず。保存悪しきため損傷少なからず。堂内に如来詠歌の遍額あり、「み熊野の神にちかいの深ければ、こころの海にやどる月影」これは織田藩狂歌師千枝居士の詠にかかれり、居士は京都の花の宗家より出羽歌垣の弥を受けたる名手にして東北随一とせらる。織田氏高畠在封の際、従って此の地にあり、しかして居士の墓は泉岡松岩院に存せりという。
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