7 飛 の匠 ― 大工の棟梁の話 ―

 まいど、飛 の匠という名人大工様いたったと。その人は大工様になんねうちは、普通の大工だと家というものは、山から木一本切って来て、柱などどれええかなんて、一本切って削って、一本立てて、「建て初め」だなんて、またその裏で、こいつを鴨居にすっか、なんて、貫(ぬき)にすっかなんているもんだったと。その木がなくなっど、また一本切って来て…。
 ほだほで、大きな家などだと、三年も五年も掛っかったと。そんで飛 の匠という人は、うんと名人なもんだから、
「そんな建て方では分んない。一夜づくりで建ててみせる」
 と、こう言うてやったと。そん時、時の天下様に、京都の智恩院というのを建てろと言わっだと。
「智恩院は一晩で建ててみせる」
「何として建てる。そんなことは建てようがあんまい」
 と言うたと。飛 の匠は設計図というものを図面をスパーッと書いて、どこさは何尺のなんぼの太さの材木を入れる、ここさはこう要(い)る、ああ要(い)る、と、ちゃんと紙さ書いて、山からそれだけの木を切ってきて、手軽にもってきたもんだと。そして大工大勢たのんでいるもんだから、墨をええ塩梅にして、こう拵え、ああ拵えというて、そうして皆出来上ったところで、建てるというもんだったと。
 智恩院、いよいよ建てっ時には、大雨降りだったと。そんで雨降りなもんだから、あの高い屋根の上さあがって、唐傘さして指図しったったと。そして夜明ける前に、あの大伽藍をちゃんと一晩で建てたんだと。夜明けたもんだから、降りて来(こ)んなねもんだべし、降りて来るとき、唐傘、二階さ忘ってきたんだど。その唐傘は今もあると、骨ばりだげんども…。そしていたずらされっと悪いから、金網かけておくと。
 その頃、熊坂長範・石川五右エ門なんという日本一の盗人の名人がいたったと。なにもかにも盗まっで困っていたと。そんで天下はなじょかしてあの盗人除け考えらんなね、飛 の匠はうんと考えて、
「ほんじゃれば、廊下の板の間が一番だ」
 と、廊下に鴬張りというのを考えたんだと。盗人が廊下を渡っど、ホーホケキョと鳴くがったと。かまわず渡るたんびに鳴くもんだから、番人が皆目覚まして、盗人は決して入って来らんねど。今もまだ鴬張りというのあるど。
 それから屋根の勾配も、大阪勾配というのだと。そいつは本当の名人の弟子になるものでないと教えねがったと。一番にみんな知ってるのは、荼毘の時、七本仏ざぁ建てる。あいつの巾は六寸だ。六寸に七本仏置くのだから七つに割んなね、そいつのどことっても寸法は寸分なしに、あの人は計ったと。こいつは大阪勾配というのだと、そいつ発明したのも、飛 の匠だったと。どーびんと。

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