9 十手風を吹かす役人をこらす天保の飢饉は奥州殊にみじめなものであった。殊に仙台伊達方面は甚しく比較 的貯蓄をしておった米沢藩は惨めなものではなかった。上杉には名君鷹山公の美 徳を承けて備荒倉の貯えがあったからであった。七ヶ宿越えは雪崩を打って屋代郷に入り込んだ。初めは施粥をしたが、それか らそれと人々に応ずる訳には行かぬ。中途で仆れる者、死ぬ者、郷内に入っても ここの堂宇に一団、かしこに一と群と其の惨状目もあてられぬものがあった。 倹約の御布令は矢つぎ早に通達された酒は呑むな、米は他国に売るな、木綿衣 より他着るな、三食中一度は必ずソバ粉かカユを食する事、ワラビの根は掘るべ からず。曰く何、曰く何、と厳重な布達、それに反すると役人は用捨なく捕えて 牢に打ち込んだ。 諸人が飢に泣くというのに、役人ばかりは違反の者を捕え恩賞に預ることが出 来た。少量の骨休めの酒を飲んだ者、親類の飢を救わんとて米を背負い行く者、 見付け次第自分の功とした郷民の者共、これには悉く難儀した。隣村の某は飲酒 したとて牢に入れられた村の某も法要の酒を飲んだとて牢舎に入れられた。これ を目撃した佐兵次、何と思ったか酷く酔うた振りをして亀岡の御役所の前を通っ た。人々はもし佐兵次が役人に見付けらるれば有無を言わさず牢に投込まれる事 故、それとなく注意した。しかし胸に一物ある佐兵次、わざと役人に聞こえよが しに大声で怒鳴って行く。これを咎めぬわけには、役人も参らぬ。 「佐兵や、酒が御法度だという事を知らんか」 「御役様、それぁもう名主様から幾度も注意されて知ってはおるなれど、露藤の 某の処へ行くと沢山酒を作っておいて、呑め呑めと強いられる。今日も行ったら 呑まされてこの通り、お役人様も呑みたけりゃ、某の処に限るぞ」 何か深い計略のある佐兵次、役人は其の巧みにおとされた。 「何、酒を造って居る処がある。それは真実か佐兵、貴様案内しろ」 「それはお役人様、案内しろと言われれば案内しない事はないが、御褒美を下さ いますか」 「案内すればやる。宜しく教えてくれた。何者か存ぜぬが不届至極の奴、さぁ案 内しろ」 また、手柄が出来たと役人は十手片手に外出姿、 「お役人様、私が案内するが宜しいか、これからその家で酒を呑む事は出来ぬか ら、沢山御褒美を頂かなければならぬ。又私が今日酒を呑んだとて、牢屋に入れ られるならば、案内出来ぬ」 「よいよい」 役人としては佐兵次などはどうでもよい。枝はどうでも其の根を知りたかった。 佐兵次は酔歩蹣跚として先頭に立って行く、部落の人々は奇妙な二人の道行きを 眺めておる。 やがて露藤の部落に入った役人は何処の辺やと佐兵に尋ねる。佐兵次はけろり としたもの。 「お役人様酒造りなどは厳重な御法度故、この部落の中にはそんな人は一人も居 らぬ。こちらの方だから、私の跡をつけてお出でなさえ」 部落を過ぎて川原の方へ行く。不審に思った役人、 「こちらには家はないではないか」 「お役人様、こちらだ」 と、松川ばたに連れて来た。役人、 「佐兵やここは川原ではないか」 「いや、酒を造る家は向うの方だ」 と、松川の川辺を川上の方に連れて行く、まるで狐につつまれたようである。 「まだか、佐兵」 松川端に酒を造る家などある筈はない。役人をこりさせるためだから、新田あ たりまで道のないところを草を分け、ばらをかきわけ、役人は佐兵に引廻された。 けれども密造の家はない。 「密造の家はないではないか」 しかし佐兵は呑気なもの。 「いや、こちらの方かも知れん」 又同じ道を下る。 「まだこの辺かも知れん」 とて、柳の株などを棒切れで突く。川魚狩りと思っているらしい。役人もやや もすると道行きの早い佐兵次に遅れ勝ち、薮をかきわけ、脛を痛め散々な目に遇 (あ) っ た。佐兵にしてやられたと気付いたときはすでに遅かった。 「佐兵、馬鹿も大抵にしろ、もうおれは帰る」 「お役人様、もう直ぐだよ」 「よいよい、おれは帰る」 と、ぶりぶり怒って帰った。それからというものはそう十手風は吹かせなかっ たという。 |
〈安政年中の逸話・高橋友吉〉 |
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