1 露藤の生んだ名物男・佐兵次置賜の停車場から県道を北すること半里魚族で名高い天王川の橋を渡ると、平 野では珍らしい萱野がつづく、露藤名物萱はそれだ。盆踊りの歌にも、「歌の節節 処で変る、是処は露藤萱の節」。盆が来ると、部落の若い衆は手拭頬冠りにしなが ら踊る。萱は露藤名物の一つ。萱野二三町行くと、県道をはさんで密集した部落が散在している。これが露藤 の部落だ。 昔から鎮守様か、露藤には名物男は生まれるとは、近郷近在の人々の話柄になっ ている名物男も数多い中に、其代表的とも言うのは、だれをさしおいても佐兵次 をあげなければならない。 佐兵次は享和三年、隣村下和田に生れ、幼くして露藤村下舘、高橋久兵衛に育っ た。先づ波瀾に富んだ同人の生い立ちを記さねばならぬ。露藤の北隣り、入生田 の十字路から振興道路を東に和田脊陵山脈を望んで行くと、和田川の流れを挟ん だ小さな部落に出る。これが二つ橋だ。更に左に折れて暫く、六角の笠塔婆が有 るので地名となった六角に出る。塔婆は磨滅して定かに判明しないが、天文二十 三年と言うから、かなり古い。 往時、道の東に佐右ヱ門という家はあった。夫婦の間に二人の娘はおった。姉 はお市、妹はお春と言ひ、お市さんは佐右ヱ門の後嗣となり、お春さんは同村の 飯爪に嫁した。運命の神は如何に人生を弄ぶ事でありましょう。人生の行路は山 又山、河又河、くらい森林をやっと抜けたかと思へば果てしもない広野にさまよ わねばならぬ。然かも寂しい影を浮かべてトボトボと歩み続けるのです。誠に幸 い、もし一道の光明はなかったら人生も又闇から闇への旅路なのである。諺にも 月に村雲花に嵐とはよく言うた。 飯爪に嫁したお春さんも其の通りであった。花の盛りに一陣の嵐無惨にも吹き にじった。里元へ帰ったお春さんは寂しかった。然かも妊娠の身重となっては…。 月満ちて生れたのは男の子、佐右ヱ門の子なればとて、父は佐兵次と命名した。 月日は関守りなく過ぎて行く、お春さんは未だ若かった。十八才の春、露藤村 高橋久兵衛にと仲人され、四つの佐兵次を連れ子として後妻となった。 久兵衛は同苗又左ヱ門の新家である。元禄年間に三十数石の自作を所有してい るから村では中流の資産家であったらしい。それが時代の変遷で享保年中の頃は 零落し、佐兵次親子は同家に入籍した頃は極度に窮乏した。一家は水呑百姓とし て生きて行かなければならぬので、幼ない佐兵次は弟の子守をしてお父さんやお 母さんを手伝った。其の頃学校としては寺子屋時代で、同村田中の平間玄益先生 は部落の子供を集めては学問を教へた。幼ない時から学問の好な佐兵次は子守を しながら、同家の門にたたずみ、筆のかわりに、木の切れ、紙は同家の庭とし、 今先生が子供に教へている処を聞いては熱心に習った。是れを見付た平間先生も 非常に感心して筆紙をあたえ子弟と同じく教える事とした。一を聞いて十を知る 佐兵次は先生も驚いた。是れを聞いた久兵衛は怒った。「あの子はよく平間先生の 処に行く、貧乏人の子どもは学問はいらぬ」。小言たらたら、頑是ない佐兵次は子 供心に悲しかった。彼れは父に逆わなかった。ふっつりと田中行きはやめた。こ うして専心お父さんの手伝をした。世は走馬灯のように過ぎて行く。弟は生れ、 愛は弟に傾いて来るに及んで佐兵次は人生の味気なさを感じた。十四五才の頃は 一人前としての働盛り、日雇にやとわれて働き、一家の生計を助けた。十六七才 になると佐兵次も木石ならぬ身の春は芽した。恋心は身にしむ頃となった。其の 頃は隣村浅川に長兵衛と言う家はあって、家は豊か、一人の娘は居った。名はお はやさんという田舎には珍らしい鄙に稀な美しい娘、人々は浅川小町よと言ひ囃 した。年は二十八を迎へると一層美くしかった。若人の血はおどった。 遠縁の間とて、佐兵次は所々同家に寄寓しては農事の手伝ひ、果ては機織りな どを教へた。おはやさんもこの天才的な磊落な如才ない佐兵次を心憎くはなかっ た。佐兵次とて木石ならぬ身の若い血は燃えた。二人の仲はだんだんと密なるも のがあった。二人の間を知ってか、媒介あって晴れて添ふの日が来た。然しこれ が永遠の幸福ではない淡い恋路に過ぎなかった。佐兵次生涯の一大転機にならん とは、神ならぬ身の知る由もなかった。 晴れて添ふ鴛鴦の契りも夢の間、吾が侭育ちのおはやさん、若い男と二人手に 手をとり、何処とも知らず道行をした。こうして佐兵次さんの初恋は見事に踏み にじられた。当時彼の心境はどうであったろう。 泣いて泣いて涙も涸れ果てる迄泣きくずれた。泣き疲れると自失した佐兵次の 頭上に鉄鎚はガンと響いた。そーだ鉄鎚に打れてみると、夢みて今迄の邪念はか らりと晴れた村の白髭明神にお詣りしよう、一道の光明は見えた。明神のすくひ でなくて何んであろう。其の日の夕刻になると、佐兵次はあの長い百二十間の昼 なお暗い参道にかかった。往時から斧を入れた事のない老杉枝を交へ長い杉の洞 門になっている。トボトボやって来た社の周りは参道に劣らぬ古木うっ蒼として 寂しい昼さえ人の怖れる境内である。まして夕刻とて後髪引かるる寂しさやがて 社前にぬかずいて拍手打ち、暫し瞑目祈願を続けた。 |
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