2 冬の語り

 うちのおばぁちゃんは、夜三時間ぐらいは友だち三人ぐらい、コタツさ当ってで、そして教えたもんだもな。冬が昔話、いちばんで、夏はあんまりな。コタツさ当って、いもの煮たのとか、焼き餅とか。「かゆ餅」な、粥煮て、坂の上さ丸くな、いっぱい並べて置いてな、凍みらがして、凍みてからワラで編んで、ぶら下げてな、こんどそれを油で揚げたり、砂糖醤油をつけたりして、あたしだよく食べたもんです。
 凍み餅の作り方か。餅搗きは、壱斗五升搗いたら、粟餅も五升、キビ餅も五升、そういう風にして搗いて、水さ漬けて一晩雪にさらして、それからこんど家の中さ下げておくの。外さばり下げておくと、「日向くさくなる」といったもんだ。寒のうちだから、大寒になると作った。寒のうちにした水は、決して変んねんだってな。んだから漬物も寒のうちに水入れっど一番ええていうことになるわけだ。家の方でなんかよ、糯米三升ぐらい寒のうち三升ぐらい水さ漬けて、ほしてこれをこんどは水から上げて、ほしてこれをこんど上げて、内干しして、それを粉にはたいておくと、一年中保(も)ったて。二年経(もよ)っても変んねの。毎年やっけな。「寒漬け団子」ていうけの。寒の水さ漬けてやるので、糯米だから柔かくて、ちょうど今の白玉粉みたいになるもんだ。今の人は知しゃねべな、そういうことは、おそらくな。昔の人はそれをやったもんだ、どっこでも。腹悪ぐしたなんて言うど、それ一番ええんだってな。腹さはな。寒のうち三十日漬けるんだも、寒の入りから寒の終りまでの三十日な。それをよっくど洗って、上げて、それを粉にはたいて、臼で。ほして「絹ぶるい」でふるって、そしてこんど内干しするわけ。外さ出しておくと、日向くさくなるから。さらさら、さらさらて、うまいもんだ。二年置いだって三年置いだって何ともないの。虫一つつかねの。昔はそうやったもんだ。今は防腐剤なの入れっけんどもな。

 うちのおばぁちゃんは器用ていうか、糯米を洗って、内干しするんだって。外に出せば米が二つに割れるな。割んねぇようにして、お菓子の材料作ったもんだ。『おこし』ていうて、家にはその道具もありました。彼岸のうちでないと駄目で、金(かね)の道具で、ちょっとくぼんだのに入れて火焚いて、黄粉練って、おこしさも飴と砂糖入っで、黄粉でくるくると巻いで、切って売ったもんだって。『黄粉おこし』ていうていたな。それから『笹まんじゅう』作ったもんです。ほら、今蔵王で売ってんでしょう。あんな小さなもんでなくて、二つで一銭だっけがなぁ。それも、ふかし加減があんの。十分なら十分でふけると思ったら、途中で絶対蓋取んねようにしねど駄目で、途中で蓋とっど、ふぐんねぐなるてよ。もう一軒でも、それやったけが、そこのまんじゅうは小っちゃこくて、おら家のまんじゅうは大きいわけだ。材料同じもの使っても、水こねと蓋取らねというのが秘訣だった。その、ふかす前のものをゴザさいっぱい並べておくもんだった。それをあたしだ、ふかす前に食べたくて食べたくてな、「一つ欲しい、一つ欲しい」て食ったもんだげんども、んだげんども、伝授ていうのは、蓋をとんねでふかせば、同じ材料で倍にもなるていうたもんだ。おばぁちゃんから聞いたもんです。これは母親もよくやったもんです。んだから、「延長坊のまんじゅう、大きく作って、おら家の大きくないから売んね」なんて言うもんだった。真ん中には餡こ入っで丸べるわけだ。その上に黄色い糯米をポチョッとつけて、ずっと並べておくもんだっけ。

 砂子関、本道寺にも坊はいっぱいあった。昔は、米沢からずうっと鮎貝、黒鴨(白鷹町)通って、萱野というところ通って、木川さ来て、一泊して、嫁に行った家が木川の福寿という宿屋だったから、今日のお客さまは何百何十人て、通知来るんだ。飛脚でよ。ほして白装束で来て、そんで家で銭箱があって、クルミ八升入るほどのものだったから、八寸の銭箱二つあったんだ。その丁度したに、朝日川流っでいるんだ。そこに吊り橋かかっているんだが、その橋は自分の家で修理して、お行さま来っどき、〈橋銭〉て、小っちゃこい銭箱さ入れるわけだ。ほして泊ったらば、大きい銭箱さ入れるもんだった。一文銭、二文銭を入っだもんだが、戦争になったどき、銭八貫匁出したな。もったいないがったげんど、鍵の果てまで出したんだから、仕方ないなぁ。シナ袋というて、シナの木の皮剥いで来て家でたんたんとして作った袋さ一つあったもんだな。とにかくそれだけお客さま泊るもんだったからな。そいっちゃ夜になっど、おばぁちゃんの代に、八畳間さその銭でっとひろげて、人頼んで、ミゴさ通しておいたもんだ。
 大井沢に大日寺ていう寺あって、あたしが三つのとき焼けたそうだが、その寺の柱ていうな、男衆二人で六尺ていう、手が廻わんねがったそうだ。今でも山門だけ残っているが、その山門さ、お仁王様と篭がぶら下がっている。今は見るかげもなく学校生徒の運動場になってますけど、切り石ずうっと敷かったとこずうっと、今日は三百人泊るというときには…。
 そこさ小坊主になって、家の父親が行ったそうだ。十五、六の時、そん時十人まで宿に泊り客増えでも、柄杓で一つずつ水たして間に合う。二十人、三十人ていうど、米を足す。とにかく十人までは柄杓で水たすだけでたくさんだったという話だった。あの境内ていうどすごいもんでよ、わたしだ小さい時分はそれほど感じねけげんどよ、今行ってみっど、大した境内だ。すごい杉の木ばり何百本とあったげんど、今切って五、六本しかないでしょう。
 大井沢村というのは、街道に添って三里だからな、下から上まで。中央が、中村ていうどころで、村の中心で、そこで生まっだのよ。だから今は農協から駐在所から中学校、小学校、営林署の担当区とか全部そこにあるわけだ。一里上から来る人なんか、下から来る人なんか、分校二つ、冬は置いてあったが、夏は本校に集まるもんだったが、んだど冬、一時間以上も掛かるわけだ。一里ていうど。部落さ道つけでも、風なんかぴゅうぴゅうでしょう。んで、ジンベとかオソフキとか履いて、体操場の四どこ(場所)さも火焚いで、掛けて干すわけだ。わたしだ、ほうすっど「下と上の生徒さ、先生、ひいきして、わたしだの干して呉ねで」なて、先生さ喰ってかかったこともある。今考えてみっど、下・上の人はハンバキ履いて来るんだから、ほれ。ジンベイとアクトカケ履いて、ほしてほいつ干さんなねんだも、学校から帰るまで。「いやぁ、悪れごと言ったもんだなぁ」て、つくづく今それ考えます。
 むかしの話なの、今語ったて、誰も本当(ほん)にしないげどなぁ。今の子どもさなの聞かせたて、聞く耳持たね。

 おばぁちゃんは発句が好きな人で、「四十七士とかけて」「連判の袋破れぬ四十七、かたいぞ、かたいぞ、ほんにかたいぞ」て、それで賞をとったという話きかさっだもんだ。仏教のことも随分お聞きした。わたしだ、神道生れだからな。歌だって随分理屈に合ったこと教えらっだもんだな。
○火伏せの歌ていうのもあったな。
 「霜柱、氷のケタに雪の梁、雨の垂木に露の吹き草」
 これは焼けたなんてないでしょう。理屈から言えばな。祭文語りも来たな。祭文語りの宿であった。
○寝っどき泥棒に入らんね歌、
 「ねるぞネダ、頼むぞ柱、聞けよ梁、まさかの時は起こせ大びき」
 大びきというのは炉のとこにおくもんだ。こういう風に三回詠んで寝れば、泥棒に入らんね。
○晦日の晩に詠んでねる歌、
 「しょうぎゃらや、いねやかりねやわが宿に、寝たるはねんぞ、ねんぞねたるぞ」
 百姓の歌なんだかなぁ。これは晦日の晩にかならず詠んでねろて言わっだもんだな。
○火伏の歌がもう一つ。
 「高きやにのぼりて見れば何もなし、火(ひ)石(いし)袋にうぐいすの声」
○眠むらんねときに唱える歌もあって、これはええ唄だと思っている。繰返して三百ぺん詠むうちに眠むらんねなてないというたもんだ。年寄なんかだど、ねむれないでしょう。んだからそれ唱えるとええ。
 「寝ては釈迦、起きては弥陀の立つ姿、枕の下は浄土なるらん」
○なだれにつかんね歌ていうのもある。百人一首の歌だな。
 「山川に風のかけたるしがらみは、流れもあえぬもみじなりけり」
○われわれ、縫いものするでしょう。これは効くでしょう。
 「千丈の音羽の滝が埋まるとも、失せたる針は出でぬことなし」
 これを詠めば、たとえ針失くしたとしても、針で怪我しないていうんだそうだ。
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