民話のこころ -(4)いたちとねずみの寄合田-

川井弥右ヱ門
 むかしあるところに、いたちがいだったずも。そしてそのいたちは、越前の川原さ粟いっぱい蒔いて、明日となれば大変ええ穂がでて、粟がいっぱい実(な)ったんだど。
「こりゃ、粟いっぱい実(な)ったもんで、今年は粟餅いっぱい食れる」て、喜んで、こんどは粟とったってええごんだと行ってみれば、さっぱり無くなっていたごんだど。誰かみな一晩のうちに盗(と)って行ったもんだずもな。
「誰に盗らっだもんだか、こりゃ。ほに、どさかに行って探(た)ねて来んなね」
 いたちは向うの方さ、ずうっと行ったずま。
 向うから烏がとんで来た。
「からす殿、からす殿、越前の川原さ粟蒔いた候が、もしもお前、知り申しまいかキチキチ」て聞いたらば、烏は、
「おれぁ尻(けつ)、舐(な)めないと教えね」て言うたど。
「ほんじゃ、舐めっから教えろ」て、からすの尻、ペタッと舐めたど。
「向うの山の、山のかげにあるぞ、カアカア」て飛んで行ったごんだど。それからまず、いたちはそう言わっだから、向うの山のかげの方に行ってみんべと行ったけど。粟などないんだし、そのうち、ピイニョロ、ピイニョロと、とんび飛んできた。
「とんび殿、とんび殿、越前の川原さ粟蒔いた候が、もしもお前知り申しまいか、キチキチ」て聞いたずま。そしたらとんびは、
「おれぁ尻、舐めねど教えね」て言うもんだから、
「ほんじゃ、舐めっから教えろ」て舐めた。
「向うの山の、山かげにあるぞ、ピイニョロ」て飛んで行った。それからまず、向うの山のかげだというもんだから、行ってみんべと思って行ったら、ねずみいだったど。
「ねずみ殿、ねずみ殿、越前の川原さ粟蒔いた候が、もしもお前、知り申しまいかキチキチ」て聞いたど。そしたらば、ねずみは、
「おれぁ、知んまいの」て言うところさ、ねずみの子ぁ出てきて、
「だだ、だだ(父)、ゆんべの粟餅食いたい」て言うたど。
「こりゃ、ねずみの畜生だな。おれの粟食ったの」て言うわけで、ねずみの家の戸をあけて見たところ、粟、みな盗んできて、山に積んでいだっけど。いたち怒って、そのねずみ食ってしまったど。
 それから、いたちとねずみは仲わるくなって、ねずみさえ見っど、いたちは追いかけて行って獲るようになったど。とーびんと。
 この民話の中の、粟盗人をさがしに出たいたちが唄う「越前の川原さ粟蒔いた候が、もしもお前知り申しまいかキチキチ」とか「向うの山の、山のかげにあるぞ、カァカァ」とか「ピイニョロ」などは、民話の内容を知る以前に耳に親しい唄になってしまっているし、『瓜姫子と天邪鬼』の中で唄われる、
瓜姫子の機(はた)に
天邪鬼 ぶちのって
キーコ・パタン
 なども同様である。川西町のある家庭では、この唄をそのまま、風呂に子どもを入れるときに温まらせるときにこれを聞かせたという。耳に親しいことが、民話を受け入れる素地としてあることも十分うなずけるいえる。
 民話の語り手、特にすぐれた語り手は民話に憑かれた人といえるかも知れない。海老名ちゃうさんは子どもの頃、よく近所のおばあさんを尋ねて、縫物をしている傍に腰をおろして「針に糸を通してあげるから、話をして下さい」とねだっては民話を聞いたものだという。また飯豊町大平に住む嘉藤さんは、二里もある小学校の帰りに、話上手なおじいさんの家に寄って、はなしを聞いてからでないと家に帰らなかったといい、小国町の塚原名右ヱ門さんは、親戚の家に住んでいて、昔話をいくつ知っているかと聞かれて、五十話も語って賞められたことがあるという。南陽市大橋にお住いの三瓶ちのさんは、学校の行き帰りに友だちと「語りっこ」をして、互いに話の数をふやしたともいう。
 こういう話から想像すると、祖母が「このむかしはどうしても語って聞かせたい」から語るという半面、子どもの方にも、「どうしても聞きたい」という欲求があったことがわかるというものである。子どもの心からすれば、「だから働かなくてはならない」とか「だから人をだましてはいけない」とか「だから人の真似はするもんでない」という教育的な意味ではなく、民話の持つ文学性こそが問題だったはずである。しかもこのような民話を一回限り聞いて終るのでなく、毎晩同じ話をねだって聞くというのは、決して「だから…」を聞くことではなくて、その民話の中に展開され、構築されて行く一つの小宇宙の魅力に他ならないと考えてよいのではないか。今までの民話研究が語り手を中心とし、語りの座を中心として考えられて来たが、今後はもう一つの視点にその民話の受け手である子どもを据えてみなければならないのではないか。というのは従来の考え方の中には、民話が祖父や父の、どちらかといえば固い語り口、祖母や母の柔らかい語り口とか、夜になればいつも民話が語られ、昼はいつもわらべ唄がうたわれていたような子どもの据え方がなきにしもあらずであったように思う。
 新潟県では「節季なんずの春むかし」という言葉があって、民話が集中的に冬に語られたことがわかる。冬の吹雪の晩に、炉の火をかき立てて、ばばあの昔語りに藁仕事の手を休めるのが、雪国・山国の民話であったことがそうである。また「昼むかし語っど、天井のねずみに小便ひっかけられる」ともいう。忙がしい昼に民話など語っていられないというのが、その意味であったろう。そんな時の子どもは民話に代る別の遊びで時をすごしたものである。もちろん親に見つかれば怒られるような遊びも多かったろう。『白鷹町史』によれば、橋のらんかん渡り、アンマさんにいたずら、コウモリ叩きなどを明治の頃の子どもはやったという話を記してあるが、しかし半面、子どもは子どもなりに大人の生活を真似た遊びを自らの中でやり、やがてそれが大人に近づいていく一つの段階をなすといった例も多かった。
 山手ではよく炭焼き遊びをやったものだという話を、飯豊町の新沼という小さな部落で聞いた。土竈や石竈で炭を焼く大人の仕事を見よう見真似で、田んぼの刈り入れが終った頃に、田んぼの黒土をとって竈を作り、その中に木を入れて火を点けておくと、木炭ができたものという。そしてそれを見ている大人も、誰一人とがめる人はなく、やがてそんな風に自分の仕事を継いでくれるのだと見ていたのだろうといっている。この部落もまた「曲げもの」作りの部落であったが、子どもは子どもで、小さな「曲げ」を作って、友だちの間で技を競ったものだともいう。
 子どもが創造力を働かして自分の遊び道具を作って行こうとすれば、山国でも雪国でも農村でも、自分の周りは遊び道具の材料でいっぱいであった。落葉はたちまち十二単衣の着せ換え人形の衣裳となり、ドングリはたちまちコマに変ったし、トゲのあるニセアカシアの皮を剥ぐとたちまち木剣に早変りするのである。その子どもが変って来たのではなく、子どもの創造力が働かないような社会のしくみに変ったことを進歩と見、発展と理解しているのではないかとさえ疑えそうな昨今でもある。
 ある村で読書運動に努力している方から聞いた話だが、読書をするということを、親が子に本を買い与えるという形であるかのように本を買ってやるという。一緒に読み一緒に考える場こそが本を共に読むということだという最も基本的なことが忘れられてしまっているとなげいていたが、たしかに本という素材を与えるというだけでは読書は進まない。親と子が互に本の内容について納得し合い、または反撥し合うこと以外に、読書はないのではないか。民話そのものについても幼児への読みきかせそのものが「相槌」による納得と同じ意味をもつかどうかは疑問が残るといえそうである。
 ともかく、民話は祖母の背にしがみつき、母の乳房を固くにぎりしめ、その時の子どものいろいろな条件を考えて、叱るように語る場合もあろうし、屁をひったときに一つの屁の話という具合に長いつきあい、深い関係の中で民話が伝承されて来たことを忘れてはいけないだろう。それらの条件を再び現代の子どもに与えなければならないということはないが、少なくとも民話の再話なり再創造の仕事にたずさわる人、ひいては民話を現代に生かし、自分の子どもたちに語りかけようという母親はその事をもう一度考えてみなければならないのではないか。
(この項終り)
(川井弥右ヱ門)
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