木小屋の生活(2) -(1)若衆の祭礼建て-

 八幡さまのお祭りは若衆がしたもんで、十五才の若い者ぁ、太鼓背負いと決っていたもんだ。虫送りもやっぱり若衆の仕事だ。小頭が先立ちになって、ここではサツキ、みんな一軒も残らず終えたところで、虫送りするもな。この松原部落では…。若衆頭が下(しも)と上(かみ)と二つの部落から二人ずつ、四人出て、寄付もらったり、神主招(よ)ばんべぁ、何すんべぁ、すっかり若衆頭の方で手続きしてお祭りするわけよ。今では獅子など出したて、お宮巡りぐらいで終して、そんでも寄付だけは、少ないかと思うと少なくないものな。(笑)
 前には屋台出して獅子出してオミコシ様出してな、獅子入っどきは、ほんにお天道さま出てしまうのよ。遅くてはぁ。今はお宮巡りして、獅子は逃げてそこらで遊んでいたなていうほどなもんだから、二時頃入んべっす。
 よっぽどなったべなぁ、獅子出さねぐなってから、人いなくて幕かぶる者いなくて、獅子出さんねなて、オミコシ様ちょっこっと出すだけだな、庭さ。こんどは国道だから警察の許可取んないど、獅子振り歩かんねわけなんだ。んだからわけて(そうだから、ことの他)夜遅くなっど獅子も逃げて遊ばれんべげんども、早くになんど遊ばんねなの、国道だからやっぱり国道になんねうちだって、そうだったもな。屋台作んのだて、駐在所から許可とってすんなねがったもな。
 お文殊さまのお祭りには相撲掛けだったな。夜は芝居を掛けたり、舞台かけたりやったもんだもな。今、若衆いないもの、さんねと、こういうわけよ。んだから昼祭りの相撲ばっかりで終してしまうのよ。今はなぁ。してこんど飯豊町になった(合併)もんだから、元添川村でないもんだから、各部落から部落対抗だなて、若衆相撲して、あと学校生徒にとらせて終りよ。
 昔は大人も契約したったし、若衆もしたったずだな。大人の契約は一家の親父べらだったな。隣保班毎にしたもんだったな。今なの、契約なて言うたて、みな出稼ぎに行ったりしていないもんだから、まずはぁ、この辺で家にいて飲み食いなどほとんどしねもはぁなぁ。若衆契約は二・三男でもやっぱり友だち見つけてするわけだったなぁ。(若衆講的なものの飲み食いのことを言っている)
 あの当時は今みたいにテレビはなかったし、パチンコだマージャンだなていうことなかったから、やっぱり映画見に行くぐらいしかなかったな。あの時代はなぁ…。まずここでは椿に映画館なかったときは長井だったな。見る人は山形さ行って見てくる人もいたげんど…。
 博奕は、この辺でなかったげんど、カゲ(宇津峠のカゲ)さ行くどあったな。伊佐領・小国・沼沢な、それから新潟県さ入ってはよく博奕しったもんだな。花札ではもどかしいから、サイコロだべ、丁半で、あれは手っ早く決まっからな。人のちょっと目届かねどごでしたもんだ。おれぁ一回見たことあったな。戸の口さ番人置かせるもんだったな。誰それ来たていうど、すぐ連絡するようにして、そういうことにして銭を呉(け)てな。さぁ、見たことない人来たていうど、すうっと連絡して、そしてこんどはちゃんと止めて、知しゃねっぷりして…。
 負ければ裸でも走んなねこと始まっじだ。銭ないげれば、衣裳でも何でもかっぱがさっでしまうんだも。衣裳などは当り前だげども、田地田畑まで取らっだんだもな、本職にかかっど。伊佐領などでは本職いだったもんだも。  虫送りていうのはお札書いてもらって、神主さんからのお札たがって村の境目さ立てて、そして小白川さ、太鼓叩いて、一軒一軒チョウチンつけて行ぐわけよ。その次の日は休みだから、サツキ休みとかねてすっどこなんだな。ここらは…。
(飯豊町松原 山田さん聞き書き抄)
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