5 じっさまの手じっさまの手はでっかい。やつでの葉っぱみたいにでっかい。それに竜のうろこみたいにがっさがさだ。いろりの火にかざした腕なんどは、丸太ん棒みたいだ。 「なぁ、おめえは人に親切にするんだぞな」 なんて、丸坊主のあたまをなでられるんなら、鬼から大根おろしでなでられるみたいに、ざらっざらっと、いたい。そんでもじっとがまんしてると、気持のほうがあったたくなる。それというのも、じっさまのあのでっかい手が出会ったできごとを思い出すからだ。 じっさまの大きい手は、おらの前で、一、二度、とじたりひらいたりする。 「こいつを、熊ののどに、ぐいっと入れてやっただが、そいでなぁ、熊のやつ、いっぺんで息がとまってしまった。傷もつけねぇで、熊の皮をとったちゅうんで、村の評判だったぞい」 というのが、じっさまのじまんのたねだ。 「おらの孫だから、おとうがいなくっとも、さびしくはねぇもんな」 そういうと、ぐりぐりと頭をなでてくれたもんだ。だから、おらにゃ、じっさまの手が、いつも、おらの頭の上にあるみたいだと思うことがある。 「ほら、こんでええのか」 何かやったあとで、自分をふりかえったりするとき、今から新しいことをやるときにゃ、「ようく考えてやるんだぞ」なんて、じっさまの手が頭をなでながら教えてくれる。 おとうは、おらの誕生日もこねぇうちに死んだ。雪の深い、学校までの道の雪ふみをしながら、小学校の生徒の前に立って、学校のみえるところまで行って、雪崩にあったんだそうな。その話をおっかがやりはじめると、じっさまはきまって、おっかに「待った」をかける。おっかの話は涙もろくなるからだ。 「雪崩はおっかねぇ。足元からくずれるんだからな。あんときはおとうもえらかった。子どもを渡してから、雪の中から体をぬいたらまた雪崩たんだから、雪の中で、自分が〈くさび〉になってたんだな。おっかもえらかったな。あれから、おとうの後をついで、部落の子どもに、毎年雪踏みしてくれて、もう十年も続けてるからなぁ。おめえも、人に親切にするんだぞなぁ」 それから、また、ぐりぐりと頭をなでてくれる。 「大地というもんはなぁ、動かねもんだ。動かねぇもんは大切にさんなね。ちゃらちゃら目の前のものにばり心をふらつかせているもんでねぇ」 「じっさまのぐちが、また始まった」 と思ってると、また頭をぐりぐりとなでるじっさまの手だ。 そりゃ、春先の雪道のできごとだ。 「こんたら雪で、びっくらするもんでねぇ。おらがガキのころはなぁ、屋根の上までつもったもんだ。それに、雪上車もなければ、ブルドーザーなんてのもない時代だからな。雪はふりほうだい、積もるにまかせたもんだ。学校に行くにも、犬ば先に立たせて行ったもんだ。学校に行くにも、犬ば先に立たせて行ったこともあったなぁ。犬ちゅうもんは、雪ぴ(雪が岩の横にとびでて、中が空洞になったところ)がわかるんだな」 吾妻山から吹きおろした雪の道を、熊狩りに行ったときのことだ。春が立っても雪のふることがある。狂ったようにふった雪の上に点々と血のあとがある。 「ありゃ、おらより早く熊狩りに出た者(もん)があるな」 じっさまは、まわりをたしかめたが、そこにあるのは、大きな熊の足あとばっかりなので、熊の足と反対の、谷の方に血をたどって行った。崖に、いまにももっかえりそうなブナの木が一本あって、血はそこまで続いている。崖の斜面には、ぼつぼつと熊の足あとがあって、ブナの大木の皮が、こすりつけたようにはげている。 ぼおっと開けた崖の下の方に、何か黒いものが、ちっちゃく見えた。 「あっ、人がやられてるでねぇか」 じっさまの頭に、熊と人がかくとうした場面がひらめいた。じっさまは思いっきり崖の上から斜面にとびおりた。べたべたと体に雪がくっついて、ごろごろところがり落ちた。ついてきた犬もまたちっちゃな雪玉になって、じっさまのそばにころがって行った。 「あれだ、そら行け、アカ」 アカちゅうのは、じっさまの手足になってた高安犬だ。どんどろにくもった空から、今にも雪がふってきそうだ。ころび、ころび行くと、アカはケーン、ケーンと空に吠えた。 「だめか、熊のちくしょう。おらがかたきをとってやる」 アカの吠える声で、じっさまはわかった。かけよって掘りおこしてみると、なんと野良着のままだった。 「なんぼ春近いったって、こんなかっこうで、この寒いとこにくるざぁ、ねぇべに」 雪の上にねせると、傷一つない。熊と争ったのではなかった。腹に手をつっこんでみると、ぬくもりが残っていたが、顔にはもう死がやってきていた。熊の足あとがあるのに、そんなはずはない。死んでしまってから熊がやってきたのかも知れぬ。そんなことを思いながら、上の道まで引きあげた。 アカが村の方を向いて、吠え立てた。 村のもんが走ってくるのが見えた。じっさまは大きな手を振った。 「崖からおっこちたらしいぞぉ、おらが引き上げておいたぞぉ」 ざらざらとカンジキを引きずって登ってきた村人たちが、ひと目みて、 「やっぱり、五右ヱ門だ。やや子はいねぇが」 と叫ぶのが、じっさまの耳にきこえた。 五右ヱ門はおっかに先立たれて、毎日乳もらいに、村のはずれの吉ばばぁの家に通ったが、昨晩の吹雪に巻かれて、山の方にまぎれこんだものらしい。 「やや子はいねぇがったが」 村の人は、じっさまにまた同じことをいった。じっさまはやや子が熊からやられたのかもしんねぇとは、とてもいえないので、だまっていた。 「雪の中に、まだうずまってるかもしんねぇ。狩人さん、五右ヱ門の死んでたとこはどこだっけ」 アカはさっと崖の斜面を走りおりた。村の人も崖の上から雪の中に次々にとびおりた。じっさまも飛んだ。 そこには、五右ヱ門がうずくまって、あなが一つと、熊の体がすっぽり入るぐらいのくぼみが並んであるのがみえた。 あわてて、やや子を見落したもんだか、アカはそのくぼみをまわりながら、鼻をこすりつけてから、空に向けてケーン、ケーンと二声吠えた。 五右ヱ門のなきがらを村人が運んでいくのを見ていたじっさまは、そこから部落の方にはおりずに、熊の足あとをたどった。 もう半日も歩きっぱなしだ。熊の足どりは、しゃくにさわるほど、しっかり雪原に続いている。もう吾妻山系から飯豊山系にきてしまっている。ブナ林がとだえて、ツガの林に入り、それからブナ林にまた入って行く。 熊の足あとが急に大きな円をえがき、行く手を大きな岩がさえぎった。アカはさっと飛んだ。熊の足あとは岩のうらがわに行って消えた。そこに人が入れるかどうかの、あなが口をあけていた。アカはこんなときには決して吠えたりしない。足あと一つ一つに鼻を近づけ、匂いを頭にきざみこんでおこうとでもしているみたいだ。 じっさまは犬と反対がわから、穴に近づくと、穴の中から、ウウ、ウウ、ウと、熊の声がかすかに伝わってきた。じっさまは銃をかまえて体をかたくした。 「こんなときにゃ、枯枝を集めて、穴の前につみかさねて、火をかけるんじゃ、煙を穴の中に入れてやると、熊のやつぁ、苦しがってはいだしてくるところをねらうんじゃ」 じっさまはアカを手で呼んだ。 「そりゃな、風の上手(かみて)に行くと、風に物音や匂いが運ばれて、感づかれてしまう。目はあんまりきかんが、耳と鼻はよくきくからのう、いつも風下からでねぇといかん」 気の立っているじっさまは、自分の気もしずめるつもりで、指をぺろりとなめて、風にさらしてみた。風の方角を知るにはこれがいちばんだ。 そんときだ、穴の中から、やや子の笑う声がきこえた。 「あんときは、耳がおかしくなったんじゃないかなと、そう思ったもんだ。ときどきにはそんな鳴き声の鳥もあるもんだし、子狐が二、三匹いる穴の中では、そんな声にきこえることもあるからなぁ」 じっさまの耳は、こんなときには、犬よりもするどくなる。やっぱりやや子の声だ。枯枝をいぶすわけにゃいかない。熊との根くらべするしかない。犬がさわぎ立てるとまずいからと、じっさまはハケゴの干し肉を出した。 それからの一昼夜も、どうして雪の穴の中に待っていたか、じっさまにも記憶がなかったという。ぎっちりと銃をにぎって、穴の口をじっとにらんでいたにちがいない。 「犬ちゅうやつは、おらよりよっぽど冷静なもんだ。じっと穴の口を見てると、穴の口が四角になったり、丸く見えてきたりするんだな。錯覚ちゅうもんだ。そのたんびに、おらが立ち上がろうとすると、アカのやつ、おらの着物をくわえてはなさんからな」 ここで、じっさまは、おらの頭をぐりっぐりっとなでた。 「なぁ、朝の光が雪原にさっとかがやくのは、こんなちまちました村のなかじゃ、美しさはわからん。ぐっとくるぞ」 そんときだ。穴の口から、真黒い熊の毛が見えた。赤いものがはみ出した。やや子の着物だった。やや子は手をのばして熊の首の毛をひっつかみ、にゃあにゃあ笑った。じっさまは、ねらいをつけた銃口をはずした。 熊は前足をのばして、くわえていたやや子の着物のえりくびをはなすと、やや子は熊の前足の上におりた。真赤な舌を出して、ぺろぺろとやや子の顔をなめた。やや子はくすぐったがって、にゃあにゃあ笑った。 「おらぁ、このまま帰ろうと思ったよ。うん、親をなくしたやや子だもん、村につれてかえっても、どうなるもんでねぇ、そんなことよりも熊といっしょに暮したほうがええのでねぇかと思ってもみたよ。アカもそれを見て吠えもせんだ。ありゃものわかりのええ犬じゃからな」 陽がかげると、熊はまたやや子のえりくびをくわえて、穴の中にひっこんだ。それからまた半日、じっさまは穴の口とにらめっこした。 陽がかたむくと、山はだをなめるように、つめたい風がおりてきた。穴の口から吐き出されるあったかい空気と、吹きこんでくるつめたい風がぶっつかり合って、穴の口には白いもやがたちこめていた。じっさまは、じぶんの吐く息が見つかったらと心配しながら、アカの背中をゆっくりなでていた。 アカの耳がぴくんと立った。穴の口からまっくろい熊のすがたがあらわれた。と、さっと岩からひととびして、谷の方にころがるように走った。 アカがじっさまの手からとび出していた。熊のあとを追うのではなく、穴の中へまっすぐ入って行った。やや子の泣き声がきこえた。じっさまは穴の口から、「アカ、アカ」とどなった。アカはえりくびをくわえて出てきた。じっさまはやや子をうけとり、ごつごつした手でやや子を抱くと、熊の走って行った方角と反対の方角に走った。 「そりゃ、鉄砲打ちが鉄砲忘れてくるとはなぁ。たいていの山を見りゃ方角がわかるもんじゃが、そんときばっかりは、どこをどう走ったか、今もってわからん。ただ目の前を走って行くアカの奴を見失うまいという気しかなかったもんよ」 ひといき入れようと走るのをゆるめると、アカの奴は早くこいと吠える。谷を二つこえると、山の上に立った。うすぐらくなった下の方に、灯がぽつんと見えた。助かったと思った。 「そりゃ、山の上はまだ明るいもんよ、雪明りちゅうのもあったしなぁ」 うしろを見ると、今こえてきた谷一つ向うの山のいただきがすぐそこにみえる。 ここまできてアカも安心したのか、じっさまのそばに寄って、やや子の顔をぺろぺろなめた。やや子はアカの耳をひっぱって、笑い声を立てた。 とつぜん、アカが体をのり出して、天に向けて一しきり吠えた。黒いかたまりが向う山のいただきで動いた。 「うおう、うおう、うおう」 熊の吠える声が風で運ばれてきた。じっさまはやや子を高くもち上げた。熊はもう一声吠えた。遠目のきかない熊だから、見えたかどうかわからない。かわりにアカも一声吠えた。きゃっきゃっとやや子が、じっさまの腕の中でさわいだ。 じっさまのてのひらがあったかくなった。ひたひたと、じっさまのてのひらにやや子のおしっこがもれた。 「ありゃ、やられた」 そのときになって、ずうっとやや子を手の中に入れて走ってきたのに気づいて、いそいで、自分のふところに入れた。 「ここまでは来られまいぞ、アカ、もっと吠えてやれ」 じっさまがもういちど熊の方を見て、「ざまぁみろ」と叫ぼうと思ったとき、「おや」と思いとどまった。熊がこっちに首をふっているのだ。 「熊もわかったんだな、わかったんだ、わかったんだ」 じっさまは、おらに見せないように、そっと涙をぬぐったのを知っている。 「おめぇのおとうだぞ、そのやや子ちゅうのは。なぁ、わかるか」 それから、おらが何をきいても、じっさまはおらの頭をごりごりなでるだけで、ちっとも答えてくれない。ただ、じっさまのごつい手でなでられて、ずんずんねむくなってしまった。 |
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