安楽城の童謡から 昔、正月の子供の出番

 年中行事で最も多彩なのが正月、しかも大人でも子供でも多くの出番をもつので何処の誰からも楽しみ深く待たれたものである。
 「正月廿日」と言って、こざっぱりした長着物を着て家業を休み、普段は余り 口にすることもない美味い物まで食べられる。その正月を昔はと言っても、戦前までは農家ならずっと陰暦で迎え、今のように陽暦の正月に足並を揃えたのは戦後で、出稼ぎ農家が多くなってからのことであろうか。
 師走の声をきくと、神々のお年越が重なり、中でそこの家の信仰の厚い神さま のご縁日には餅を搗くか、赤い飯を炊いて振舞う。殊に鎮守さまのお年越にはその集落ではおさいど(....)を焚いで奉納する。子供達は各戸をまわって藁を準備し、架稲 (はさ) 長木 (ながき) など使って大きな藁の灯明を形作る。架稲長木を新調した家では、おさいど で使ってもらった木は腐らないし、虫もつかないと言って、何処の家でも喜こん で提供してくれたものである。
 この灯明を年間の月数だけ用意して、平年は十二本、閏年なら十三本雪原に立 てる。日が暮れて祠に参詣に行く人達が多勢集ったところで、いよいよ点火される。
   ○○神さまに お灯明献げ奉る
   おさいど おさいーどー
 舞い上る炎に加勢するように、天にも届けとばかり競って大音声を張り上げる。 賽の神の呼びこみにもなることだろう。この頃からにわかに正月近しの気分が湧いてくる。
 正月事始めが師走十三日、先づ正月用の白米を搗く。発動機や電力が手搗臼に とってかわるまで、この風習が遺っていた。その他正月を迎える準備としては障子の張替え、蓆畳の敷替えもこの間に行い、往時は煤掃も大方の家ではこの日行ったものだが、実際にはもっとせっぱ迫ってからでも遅くないというので、暮近くにずらすようになったという。
 廿五日は正月用の納豆煮で、大正月用だけでなく、小正月の年越にも、また二月の「一日 (ひして)正月」にもこの日作った納豆を使うことになっている。口開けは正月沢庵漬と同じ煤掃きの日に行ない、近所や親しい仲にお才暮に手作り納豆を配り合う。そのお使いに出された子供らが、藁苞をのし代りに松葉を附けて引きづるようにして行き交う姿は嬉々として、駄賃の貰らえた喜びがかくせない。納豆配りは子供らには楽しい正月の一頁であった。
 煤掃は後におくらせて二十七日に本家とか旦那衆に手伝い、一般の家では二十八日に行なう。早暁に起きて、まだ囲炉裏に火を焚す以前に屋根裏の清掃から始める。そして神棚の清掃は旦那の役目で、これには男子が手伝わされる。小人は狭い場所で身まわりが効くので重宝され、また持仏壇の清掃は主婦の役、こちらは女の子達が動員されて仏具の研ぎ出しなどに手伝わされる。
 煤掃いを終えたら正月の餅搗きである。家によっては幾臼も、何俵餅も搗くことになる。神仏に供える鏡餅を初め、大正月中の食用餅、それに年賀用のものもみな こ餅(..)にとり餅にする。搗きたての餅は間を置くと風をひき易いといって、泡ぶくれしないように直ぐとり餅しないといけない。ここにも子供の出番がある。千切った餅を粉をつけて大事にいたわるようにして丸める。餅肌の感触がいよいよ正月近しを感ずることだろう。
   正月ァ何処まで
   きりきり山(やんま)のかんげまで
   土産ァ何々
   人参(にんじ)と牛蒡(ごんぼ)の辛煎 いのまったの切り昆布
   猫まったの串柿
   誰ちゃ呉れっとて 突ン出した
   誰某要らなえどて もんどした
   やーどなえ やーどなえ
 行事化された正月準備も大晦日の年越の宴に至って最高潮である。家族は大人 も小人も雇人も皆な一風呂浴びて、長着物に替えて揃って年越を同席で祝うので ある。赤い高脚の膳に木椀一式で、主従でも格差のない振舞ご馳走で、往時とし ては正に大したおごり(...)だったろう。お膳についた馳走は全部食べないで、きっと 半分は翌元旦に残す風習であった。子供らもお膳の馳走もさることながら、小椀 から胸に抱きかかえるようにしなければ持てないような大椀まで、何種類もの椀 の並ぶのが嬉しさも最高である。
 大晦日は一晩中戸の口の大戸を閉め切らずすかしておいて歳の神のご入来を待 つ。
   正月ァござる 何さのてごさる
   ゆずり葉さのって ゆずりゆずりござる
 その正月さまが今晩着いて、どんなことがあっても卯の日にはお帰りになる。 ご自分の食扶として一斗の飯米を背負ってお出でなさるが、日に一升飯を食われ るお方なので、若し卯の日の到来が遅くて滞在期日が長くなると、食いこみ立て ることになる。逆に早く卯の日が巡ってくると飯米が余る勘定で、米の余るよう な年は上作で、不足する年は不作と占う。従って「卯の日を確かめてから若勢頼 むか決めろ」という言伝えがある。
 正月中の作試しは手をかえ念入りで、この日に「月焼き」というものを行なう。 おみだま(....)を板簀に載せて祖霊さまに捧げるが、この時の敷紙を使って行なうもので、その紙に付いたおみだまの濡れ跡を順送りに月を決める。これを炉端で火に かざし、下まえからウルキの箸に火をつけて近づけ、だんだんに焼焦して行く。 その焦げ様によって、例えば乾燥度の強い月は天候の良い日、湿の多い月は雨、 または雪の多い月と占う。後でこの紙を農事暦に大黒柱のなげしに大事に貼って おいたものである。
 年越祝いを済ませて、暫く団欒の時を過した後、家族動員で夜警(よまわり) をする。勿論男の子は員数のうちである。伝家の宝刀を取り出して腰にさし、マタギの鎗や火縄銃まで担ぎ出し、それぞれ得物を身につけた物々しさは、まるで魔物退治の絵巻さながらである。貝を吹き鳴らし、火の用心を叫び、建物の屋根屋根に杓子で 手桶の水を振りかけるのは火防の呪言で、屋敷の鬼門に来る魔物払いに中空に 向って空砲を放つ。銃のない家では弓矢を作って射る。この夜警を済したら家族 そろって運のそばで夜食を摂る。
 台所のくらしも元旦から更新というので、先づ囲炉裏の火をあらため、炊事を 清新する。朝に起きたら年男が囲炉裏の火を新しく起す。何時もなら残火を火種 にするのであるが、この日は塩水を打って炉を清め、火打石を使って新しく起し て、達者(まめ)に暮すようにとの縁起から大豆殻に焚きつける。年男はその家の男の子で年寄の後見がついて取行なう家が多い。
 次は水神を祀る泉井か、引水の根から若水を汲んでくる。手桶に〆縄を張り新 しい柄杓をもって、
   あらたまの年の始めの玉柄杓
   福汲む 米汲む 宝汲む
 と唱えて汲みこむ。この若水は徳利 (かんすず)に入れて神棚に供え、後で家族みんなで頂 く。他に茶湯を沸し、また朝餉の炊飯、お汁にも使ってお祝いにする。
 元日に箒を使うと、せっかく入ってきた福の神を掃出すことになると言うので、 元日は箒を休める。ただ「掃き初め」といって、神座一間だけ普段とは反対に戸 口に掃き出さないで、部屋の隅から中央に掃き集めるように箒を使う家例の家が ある。
   あらたまの年の始めの玉箒
    万の宝掃きぞ 集むる
あるいは、
   年の始めの玉箒 手にとる度毎
    黄金を掃き込む 掃き込む
 元朝は家族連れ立って鎮守さまに初詣する。先頭は俵沓を履き雪路を踏むが、 大概の年は鳥居も雪に埋れ塞いてくぐれない。鳥居も積雪計みたいなもので、行 き交う初詣の人たちに往時の雪の想出をたどらせ、雪話と作柄予想が挨拶の代り となる。
 参詣済ませ家に帰って賽の神さまを拝み、若水を頂き、お神酒で祝う。島台 (おてかけ)に は御饌米の他に、ホシコ(乾鰯)は田作り、大豆はまめまめ(....)しく、栗は繰りまわしよく、昆布は喜ぶ、串柿は掻き込むようという縁起で添え、それを一同に引い て呉れる。
 正月礼の来客にも島台をはさんで挨拶を交す習いで、その時に豆を三粒引いて 客に進ぜる。それを遠慮されては縁起でない。「出された豆は頂かねば…」という 駄洒落はここから生れた詞だという。ともあれ元日とあれば年越の宴のみちたり た気分も後をひいて何となくさわやかさも湧いて来る。
   正月ァえんだ えんだ
   あがえ着物(かっか)しゃぱて 赤え魚(どど)食って
   油のような酒飲んで 犬歯のような餅食って
   正月ァえんだ えんだ
 正月二日の朝夢を初夢といって、初夢に「一富士、二鷹、三茄子」を見ると吉 兆という。子ども達はそれをあばけて(....)(ふざけて)、
   一富士、二鷹、三茄子(なすび)、四葬列(そうれん)、五糞―
 といって囃す。
 よい初夢をみるには宝船を紙に画くか、長歌長き世のとおのねふりの皆めざ め、なみのり舟の音のよきかな―を書いて枕の下に敷く。或は付木で船形を作り、 帆に宝の字を書き入れて枕下にして寝につくとよいとされた。ともかく初夢も子 どもによりの行事だった。
   正月二日の真の夢に
   子宝産んだる夢をみた
   取り上げみれば玉のようなる男の子
   祝いましょうや のぼり竿 のぼり竿
 てまり唄である。いずれは大人の唄を小耳にはさんで童達の唄に変えたもので あろうが、元唄は往時流行を極めた大津絵節のようである。
   ながきよの ながきよの とおのねふりのみなめざめ 下から読んでもな
   がきよの 正月二日にまさ夢をみた 宝子産んだる夢をみた 取り上げみ
   れば玉のようなる男子あり 祝いましょうや上り竿 菖蒲刀やあやめ草
   あァこらこら
  元日から財布の口が開いてお金の出て行くのを嫌って、二日が買い初めであ る。商店ではご祝儀にいろいろの景品を添えてくれるので、子供たちは買物の使 いに出されるのが嬉しい。貰うおまけは半紙何帖とか学用品の類であったが、一 般にはきっと付木とかマッチがついた。これは先が明るいよう、そして付木の先 に硫黄がついているので、「祝う」という縁起なのだという。
 買物は何はさておき食塩と決っていた。商店に遠い僻すう部落などでは隣家同 志相談でお銭を出し、小皿一杯ほどの食塩を交換して購ったことにするほど塩に こだわりをもったものである。
 正月二日には書き初めがある。若水で墨を磨り、手に応じて芽出度い詞を選ん でお習字する。和紙を長く貼り足して、詞の意味がわかろうがどうだろうが、「天 筆和合楽地福円満楽」とか、それと、

 あらたまの年の始めに筆とりて
    よろずの宝 書くぞあつむる 年正月一日
                    氏   名
 年徳大善神様

 これが書けたら、ともかく得意絶頂だった。これを年棚を飾った部屋のなげし に貼っておき、それを小正月のおさいとで燃やす。燃えついた紙が火勢にあふら れて高く舞上るほど手書きになると喜んだものである。
 正月三か日は婦女子は家を出て他家を訪ねることはしない。つまりは四日が「出 はり初め」で、日頃親しくしている近所を訪ねて羽根を伸ばす。お祝いの標に門 松から松の葉一片をむしり摘んで入る。甘酒でも馳走なってるうちには類は類を 呼んで輪が拡がり、にぎわしく茶話が酒盛りともなりかねない。
   唄のうたい初め 仕事のしそめ
   貰た手拭の 冠りそめ
   正月元日から 飲みそめて
   二日酔い 三日ふらふら
   四日よかよかと いつかこの酒
      覚むるやら 覚むるやら
 謡曲をたしなむ人たちは今日が謡い初めであるから、自づと女衆のうたい初めもあっても可笑しくはなかろう。この時よく女子など婆ンちゃん()ごがお供する。 そして耳にした唄が子供らの口に移り、やがて手まり唄やしょうなご唄(お手玉 唄)となって広まった向きも多く、これもその例である。
 四日は山神さまに正月礼に行く。のおさ(...)を納め、若木迎えといって若柴や門林、梨団子、たたきなどの材料を迎えて来る。元気な男の子は勇んでお供する。そ れというのも「たらまわし」の楽しみがあるからであ迎えたら一尺前後 に切り揃えたのを幾本か一緒にして束ね、間に芹をはさむ。これが俵(たら) であり、これに松葉を添えて子供らは親戚や親しい近所にお年始に伺い、お年玉を貰う。 タラは芽は七草のタラ叩きに、木地は「十二月」の矢を作るのに使う。
   一に俵を踏んまえで 二にニッコリ笑うて
   三に盃ひっかえで 四つに世の中よいように
   五つに泉の湧くように 六つ無病息災で
   七つに何事ないように 八つ屋敷を平らめて
   九つ九(こ)の倉おっ建てて 十にトント納った
 こんな唄をうたってたら(..)をまわしたものである。数え唄式なので、てまり唄と してももてはやされた。たらまわし(.....)に行けば、お年玉がもらえて、男の子にはたまらない行事である。正月中には俵まわしと言う門付もやって来た。
   このこのよい子のな
   福俵廻しをみっさいな
   一転しは千俵 二転しは二千俵
   福はでっしり招ぐよう
    一に俵を踏んまえで 二にニッコリ…
 これは藁で作ったミニ米俵に細縄をつけて持ちこみ、どんぎから家ン中に放り 込んで貰い歩く大して芸のない者だったという。
 この日はまた若木迎えで、若木は誰が持主だろうと伐ってよいとされた。若木 で炊飯し、囲炉裏に焚した煙に肌をかざすと無病息災、年寄は若返って長生する といって老若みな火に寄って煙を躯になすったものである。
   爺っさ 婆っさ 若げぐなれ 若げぐなれ
 炉端で暖をとる年寄の膝の上で、幼児たちが若柴を焚く火に手をかざしてほと ぼりを爺さん婆さんの肌に移してやろうとする。すると年寄は、
   野郎ッこ まめでおがれ おがれ
 幼いうちは男女を問わず野郎(...)と呼ばれると丈夫に育つものだと言伝える。若 木いぶしにはこんな和やかさがつきまとった。
 七日の朝は七草粥を炊く。といってもこの雪の中では春の七草を用意する訳に は行かない。せいぜい芹、スズナ、スズシロといったところか。他はタラの芽、人 参、栗、芋の子など、とにかく七種にして細かく刻む。
 前夜のうちに揃えた材料を、起きがけに唄で調子おもしろく俎板の音をひびか せる。
   タラ叩き タラ叩き 千タラたたき万タラたたき
   唐土の鳥が渡らぬさきの叩き、タタン タンタン
   (唐土の鳥と田舎の鳥と渡らぬ先のき―とも)
 これをタラ叩き(....)といっているが、年越祝いに供えたおみだまのご飯やら宇賀さま のご馳走、これは一のヒレの年魚は後継息子に下げ、他は凡てこの七草粥に入れ て煮る。余り美味いものではないからか、焼餅を入れて餅粥にする習である。
 十一日はのびらき(....)で、田圃に堆肥を運び、野良仕事の仕初めとする。堆肥は背負い易いように前日に藁で被い束ね、また田圃への雪道も踏み堅めておく。「よて田」といって祖先が開墾の時に一番手がけにおこしたという田で、苗びらき、虫 追いなど、田の神事はみなこの田で行なう習である。深い雪の中で暗がりでも場 所が判るように、前日から見極めて、煤掃ボンデンを突立てて目標にしておく。
 早暁に男衆が起きて堆肥を背負って運び、それに御神酒を注いで、貝を吹き鳴 らして豊作を祈る。暁の闇をついて遠くから近くから貝の音は先陣を競うかのよ うに喧しく鳴り渡る。その勝負にこの年の作柄がかかるとけしかける老人も居っ て、送り出した家族までが、貝の音に耳そば立て力出している始末である。
 堆肥背負(こいしょい)をした若衆には朝餉に宇賀の餅が二個ずつ引かれる。この餅は昔は円形だったという田を形どり、水口といって一寸とした凹味をつけたこ餅(..)である。 農家の男の子らはそれが魅力で、堆肥を小ぶりに束ねてもらって一行にかぜ(..)ても らう。それと貝は普段は非常用具で、やたらにいじったり吹いたりするのを戒め られるが、この時ばかりは存分にさわれるという望みがあって心踊りしたことで あろう。
 小正月になると、農事正月といってよいほど、豊作を祈る予祝行事が多い。先 づ十五日は模擬田植で、屋敷内の雪原(ほてはら) に祭りの場所を定め、ケヅリカケを四隅に さし、その枠の上手に一米ほどに切ったタラの木を五本つきさす。タラは米俵に通じ て米の豊作を意味すると共に、木が五本ならべば「森林」であって、今で言う緑 は水源を作る。タラの木の代りに水木 (みずき)をさす家の例もある。
 次に葭を七本、葭原は湿地で水の湧き出る地帯、そしたら田圃を耕し藁を挿す。 これは水稲である。その続きに畑作を代表して大豆殻を挿したところで、傍に煤 掃ボンテンを一本突立て、おてかけと御神酒を供えて、丘作稲作共々農作を祈っ て礼拝する。この役は鍬頭となる者がつとめるが、こ苗ぶち(....)と称して男の子が手 伝わされる。小さい時分から仕来りをしっかり身につけさせておきたい計らいだ ろう。
 いわばこの雪中田植の済んだ頃をみはからって部落の若衆が田植踊の門付に来 る。子供達はまたそれを真似て、囲炉裏の金火箸を手にして金輪を振り鳴らして はしゃぐ。
   ウウーソオデーワエー エーエーエー
   オー正ヤー ソレ月のー祝えー年でナー
   門にーソレ松をば ひーきー植えーるー
   ウウーソオデーワエー エーエーエー
   懸(か)ーがァーるー白雪ァーみーな黄金ー
   懸ーがァーるー白雪ァーみーな黄金ー
 夜になって皆床に就く前に「田草取り」行事がある。家族の中で春野に入る者 みんなが手をかして囲炉裏の灰を丹念に掃除する。囲炉裏汚しておくと田圃が荒 れるといういわれがある。若しも三月に尋常科を上るよな子が居ると、女の子で もきっと田の草除りをさせられるので、眠い目をこすりながらも灰ならしを持た される。
 十六日になると、子供達は夜明けも待ち切れぬ風に、貝を吹き鳴らし、鳥追い(...) に田植跡をまわって来る。
   鳥追いだ 鳥追いだ 門に門松 門林
   向えの木のボッコさ こうの鳥三羽
   スッパオッパ筍 綾錦つんばぐら
   つんばぐらの羽根さ もち(..)三杯ぶっからで
   バッタラめえで 飛べなえ 飛べなえ
     ジャエホエ ジャンジャラホエ
   上方の鳥は 足袋履いで踊るわ
   俺方の鳥は 粟稗ばりまぐらって
   いっち(...)憎い鳥だ 篭さ入(え)っで結(ゆ)つくらげ
   佐渡島さ追ってやれ
   佐渡島近がらば 鬼鳥さ追ってやれ
     ジャエホエ ジャンジャラホエ
 餅や蜜柑など、貰ったご祝儀を雪の穴倉で食べるのも楽しいもの。若し寝坊な 仲間が居ると冷かしに、また鳥追いがどんなに早くまわって来ようとあわてない よう、ご祝儀を高窓(さま)に載せておいてくれる家が多いが、若しそれを忘れ、起きても来ない家があると、悪態唄が浴びせられる。
   郎太郎 かがあ羽がえ(...)冠て
   起ぎで鳥追えなえ 鳥追えなえ
   酒こせ餅焼げ ブーブーブー
 田畑を荒すものは鳥類ばかりではない。昔は蛇も土龍も耕作に大きな害を与え るとて嫌われた。その呪も小正月十五日の行事で、
   豆の皮(か)もホガホガ よね来る 飛んで来る
   長虫ァ来んな 来んな
   豆の皮もホガホガ 長虫よげろ 土龍ァもんな
   夜這いども来んな 来んな
   豆の皮もホガホガ 亥の香もホガホガ
   ヤーレクレァ 飛んで来る
 部落によって、また時の移りかわりで唄は多少異って継れて来るようだが、豆 の皮を家敷まわりや田の畔に撒らして蛇や土龍を近寄せまいとする。その豆の皮 は十一日に小正月用に黄粉を挽いた時に出たのをとっておく。一方また横槌に縄 をつけて引きづって歩く。こうすると土龍も蛇もおそれて近寄れないと信じての ことである。
 果樹を責めて豊熟を約束させる呪もこの月の行事で、子供の集団が雪道をつけ ながら成木に近づいて行くと、山刀を手にした一人が、樹皮に切り傷をつける。
   成っか 成らなえが
   成らねげば ぶった切ンぞ
 と威嚇する。すると供の者がすかさず「成り申す、成り申す」と詫びながら、 その傷跡に正月のマユ玉団子を煮た液をふりかけて歩く。こうすると、隔年成り の果樹も毎年稔りをみせるというのである。
 ずっと昔は、この成木責めや蛇、土龍打ちなど、それぞれ別々に行なった行事 だったかもしれないが、後で子供達の手にわたるようになってから、十五日の月 明を頼りに一緒に行なう所が多くなった。小川内部落では小正月の晩に子供達は 年越を家で済したら部落開祖の大本家に寄って、これらの行事を取り行なってや り、甘酒や餅焼の馳走に預った上、古老を囲んで昔話を聴く習が続いたと言われる。
 成木責、土龍叩きを終えてからおさいどを焚く。この日は「かどさいど」と言っ て戸毎に焚くもので、先づ藁を二束一緒に雪に立てて燃す。その裾藁の燃え具合 によって、本田植の時に植苗が不足するか、余すようになるかを占って、播種の 時に籾種を厚蒔にするか、薄蒔にするかを手加減する。占った後は藁を足しくべ て天を焦すほどに火勢を強めて、大声張りあげて景気をつける。また書始め紙を 焔にかざして上達をかける。
   お祭灯 お祭灯 お祭灯のごりもり
   鼻糞 眼糞 飛んで(行)げ とんでげ
 お祭灯には童たちばかりでなく、大人も寄って来て、いろいろの願いをかける。 その火で温まると老人は若返り、この火で餅を焼いて食うと誰も風邪をひかない。 煙草の火をつけて喫むと歯が丈夫になる。また皮膚病にかからないというので梨 団子を火にかざし、それで身をこすり、隣合せた同士が手渡して、
   ひぜん へぼかぐな かぐな
 と唱えて遠くの方へ投げ合う習もある。
 空は満月である。子供達にもう一つ大役がある。眼疾いをしないようにと、家 族それぞれ自分の才の数だけの雪玉を握り、往還への丁字路の傍に積み重ねてお 月さまに供え、お灯明をともして拝む。子供達は年寄の分を手伝い雪玉を握って あげ、お駄賃に預るから年寄めご(..)の楽しみである。
 また「十二の眼」といって、家族の数だけ藁ミゴで眼型を作るか、或は紙に眼 を画いて厠神に奉納する。雪に閉込められ、焚火の煙でいぶされ通しの生活では、 どうしても眼病、トラコマなどに患りやすい。正月を過せば、にわかに屋外の作 業が多くなり、強烈な太陽光線と白雪の反射に悩まされるので、このような行事 も生れたものだろう。
 小正月の年越にも「水口田」と呼ぶ作試しをする。手を替え品を替えして作を 占うのも、昔の農作は殊の外天候に支配される度が酷しかった証である。これは 月の数だけの藁ミゴを真中から折込んで一握りに持つ。中央をかくしてホッピキ のようにして両端を家族の者に結ばせる。全部が結び終えたら手を開く。ミゴが 出来るだけ広い大きい輪になっていれば上作で、小輪がザクザク重複しているよ うだと、水口田だといって今年は不作と占うのである。
 陰暦の正月であると節分と暦日の上で重複したり、または連続する場合が多 かったので、昔は節分は正月行事の一部のようにみられた。節分の夜には「福は 内」と言って豆蒔きの行事が行なわれる。明るいうちに大豆炒り、一升桝に入れ て神棚に供えておく。豆を炒る時に月々の天候からその年の豊凶を占う行事があ る。先づ粒の揃った大豆を十二粒、閏年なら十三粒選んで炉の灰の上に並べ、順 に一月二月と定めて、それがほど(..)の熱で焼焦げる具合をみて月々の天候を占う。 つまり白く灰になる月は晴、黒く焦げる月は雨か雪、早く焼ければ旱で、息吹く ような月は風などと判じたものである。
 夜になると年男の男の子が明きの方(恵方)から豆を打ち始め、部屋部屋から 建物すべてを打ちまわる。
   福は内 鬼は外
   天に花咲き 地に実が成り
   鬼の眼ン玉 打っつぶれろ
 鬼を追い出したところで、田作の頭を焼焦したのを萩の串にはさんで魔除けと して戸や窓にさす。豆打ちは単に厄病神や悪魔を追い払うための呪だけでなく、 豆の種を畑に蒔きおろすことの模擬的作法であり、予祝行事の一つとして行なわ れたものだったかも知れない。
 正月も廿日で歳棚を片付け、お飾りを外す。ただ梨団子は二月正月を過してか らにする家が多い。この終 (しまい) 正月は灸立日といって、小皿のこじた(...)に艾草 (よもぎ)を盛り、 燃してそれで家族の身体をなでつけ、身体健固を祈る。また十能に艾草をたて大 戸のしき(..)、炉のかぎのはな(.....)、井戸の釣瓶縄、厩の矢来棒とか、日頃繁しく動き稼 いでくれるものにも労をねぎらって灸を立てる。そして農家の正月休も今日切で ある。
 二月一日は、二月正月または「一日(ひして)正月」といって、もう一ど歳を迎える。暮の二十五日にねせた納豆をこの日のためにもとっておいて、正月納豆として使う。 朝餉には家族に菱餅二枚ずつ引き、雑煮餅を祝う。正月に年男をつとめた者への ご祝儀はこの時出されるから、正月の決算の日のようなもので、子ども達にも楽 しみな日である。
 家族の中に厄年に当る者の居る家では、この日を正月後の最初の朔日、新しい 元日と仮に定めて、これで厄年を去年のこととして新しい無事の年を迎えようと 念入りに年祝いする。こうした家では梨団子も二月十五日まで飾っておく習であ る。梨団子を取外すと水木のまっか枝が沢山出るので、子ども達はそれを使って 鉤ひっぱりやベロベロ占いなど、いろいろの童戯を楽しみ、正月の名残りを惜む。 年越には丸い()餅、のびらきには田の形をなぞったという宇賀の餅、そして一日 正月には菱餅とそれぞれ変った形の()餅、しかも子供には独りでは一どに食べ切 れない大きいのが引かれるのが何ともうれしかったものである。
 「片年はとるな」といって、大小正月の年越は同じ家で迎えるように努めたも のである。現今は大正月、小正月を長々と祝う家などのこっているだろうか。し かも出稼家庭などでは七草までも一家揃うなど珍しいこと、正月にかけた子ども 達の楽しみも今はずい分と変ったことであろう。
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