1 あらきの子守唄

 昔あったけど。長者殿の家さな、小町娘てさわがった器量の良い独り娘いだけ ど。親達ぁ何(な)じがしてそさ(..) 良え聟さづげだいもんだど思(も)て、高札立てて聟さがし したけど。
 それききつけて、三国一の花聟になりだくて、近所近在は勿論、遠く町の方か らも集て来る者仰山居たけつけども、ながなが難しい条件でな、問題は三つあた ど。それみな解げなえじゅど駄目だて言うなで、並み大抵な問題でなえどみえで な、その高札見だだけでは皆な首(くびと)かしげっけど。
 先ず第一は、背戸(せんど)の山から大きて大っきいドンコロが転がり落ぢでくっさげて、 それ抱き止めれっかてだど。その山も長者の山だべ。とでつもなぐでっけえくて、そさ大傾斜(おおぴら)なて屋敷さ続いでんなださげ、こげた所(とこ)ばドンコロ転で来たごんたら大変だ。ガランガランとはずみついで家ン中まで入りこみ、一ぺんで柱の二、三本へし折れんべ。ほれば素手でうげろなて、無茶ていうもんだべじゅ。
 はでさで、これだけでも大した勇気の要るごどで、皆な鰓(あげ)さ閊えさせだふうだ でや。んださげ往還さ立った立札には黒山の人だかりだけつけども、まだ門ば潜 て中さ入て来て名のる者は一人も現わんなえがったど。
 娘も何た人が名のて来るもんだがど、わぐわぐして覗こんでだけど。ほごさ見 るからに頼もしそうな若者が出て来たなで、あの人ならなど、心ひそめて想いこ がったどこだど。
「なんじがして、あの方に合格してもらいたいもんだ」と思てな、声かける訳に も行がなえさげ、こっそり心で祈ったべ。そのうち若者は群集(みんな)の中からひらっ(...)と 姿消して居なぐなたけど。多分諦らめで帰たながな。
 娘はきめえ焼げ(.....)で(気がもめで)来たなで気落ちづけんべど、水屋(みじや)さ水呑みにまわたど。ほしたら背戸の山の下まえさ、先程(さきだ)の若者の姿見えっちょん。多分傾斜 (ひら)の具合でも調べでるどこだったろ。そさ娘ァこっそり近寄て植木の陰さ身を隠したけど。
 ほん時(づき)だ、若者さ唄こ聴けて来たな。ほれまだどうも他人(ひと)さ悟らんなえように歌って呉ってるみでぇだけど。
   背戸(せんど)の山(やんま)のドンコロは
   紙で貼ったるドンコロで
   転んで来たとて 動転するな ねんねろヤー
 若者には声の主は判らなえども、唄の意味が通じたとめえて、ニッコリうなづいて山神さまさ手合 (あ)せていだけど。
 さで次の問題はだな。「千刈の田圃(ともて)の田の畔(くろ)ば一日で塗り上げられっか」て言うなだど。これまた前にもまして難問だ。千刈の田圃を独りでて言うのさえ並な仕 事でないのに、しかも鴉の足跡をつけないでと言うのださげ、どだい無理な話だ じゅんだ。でもな、若者は首ひねる前に、先ずほの田圃は下見してみんべと思た ど。長者のこんだから聞ぐまでもない。すぐ家の前の田圃がほれだべ(それだろ う)て言うなで、其処(そさ)行てみたべちゃ。ほしたらまだ何処(どつ)からとなぐ唄聞けで来 たけど。
 何たてふしぎだもんだ。歌う姿は見とどけらんなえども、確かに先程 (さきだ)の声だ、それに違いない。これや神さまの御告かもしんなえどて耳傾げでねっつぐ(....)(一心に)聞いたど。
   千刈田圃ともでの畔塗るにや
   朝間に削って 昼つけで
   鴉の夜上り見で撫でろ ねんねろヤー
「なるほどな、んだ(..)かんじょだ。朝仕事に先ずどんどと畔の古土ば削って行って、 昼仕事に削った後さ泥土ば附けて行ぐ。撫つけるのは鴉がとや(..)(ねぐら)さ帰っ てから」にすると、明日の朝までには、きっと新しい泥も乾いでんべさげて、鴉 などなんぼ畔さ下りだて足跡などつかないていうもんだ。よし、これで二問出来 る。おどり上がるほど喜ごだんだな。
 はで、もう一つは倉の戸口(くち) や小屋さ仕舞ておぐ鋤鍬や鎌など、農具(どうぐ) の数を一丁 も間違わなえで数ぜられっかと言うなだど。普通 (ただ)の家と違って、長者殿の持ちものだもの、穀倉と言ったても一つ二つじゃなえのに、宝倉、味噌倉、それさ小屋 となっと作業小屋、厩舎(んまごや)、薪(き)小屋などて農具仕舞ておぐ所(どこ) も沢山(えっぺ)あんべしな。其処(そさ) 置いでんな間違なぐ数(か)ぜろたて、両手をつかて十本の指ば折ってみても、それだ けで数え切れるもんでなえ。考えだだけでも、こんがらげりそうなて大変なこっ た。ほれでも建物だけでも見でみんべど思(も)て、屋敷ぐるっとまわてみだどごだど。 ほしたらまだまだ唄こ聞けで来たけど。
   一丁と二丁なら 三丁だべな
   三丁と七丁で 十丁だべな
   十丁ずつ十なら 百丁だべな ねろねろヤー
「成程な、お陰で悟たちゃ」。建物ばめぐて歩ぐうち、雨うち越すどて、ドッコイショと声でも立てようもんなら気が移てしまて、今まで数えてきた数ば忘っでしまて大変(おんごと) だ。まだ一から数え直すたて(..)楽でなぐなる。それを物どか場所どかさ、 きまりつけで区切て数えで行くど、そうまごつかなえで良(え)え。例え途中で違ったにしても振出までは戻らなえで済むじゅもんださげな。
「これぁ良えごと聞いたぞ。これで三つ皆な出来る。良(よ)しきたり」て言うなで、 いよいよ玄関から堂々と名のり出たどこだど。
 ほして長者殿の前さ出はたべ。親戚(えっけ)達(だち)、出入頭や鍬頭だの山廻(やままり)だのて、やがて先立する人達の沢山(えっぺ)並だどこで問答あったべちゃ。でも先程(さきだ)の唄でちゃんと解げっさげ、びくともしなえで答えだんだ。なや。そしたら長者殿が美ン事出来た どて、扇子開いで伸上げだけど。
 これで若者も三国一の花聟さまに選ばって、小町娘とめでたくそいとげだべ。 やがてにゃな、めんごげだ子供(おぼこ)も生ってなや、一期(いちご)幸せに暮したけど。どんぺ からんこ なえけど。


 安楽城に吹き溜った古謡の中から、この唄と民話をみつけ、「あらきの子守唄」 と銘うったのが一九五五年。他にも約百二十編ほどの童唄と共にガリ版に刷っ たのが初め。これがもとでNHKから数回にわたって「安楽城民謡・童唄調査 団」が派遣。武田忠一郎氏の手で採譜、日本放送協会編東北民謡集山形県編(昭 和三十五年発行)には百五十編から掲載された。また昭和三十二年には未来社 みちのくの民話第二集にも載る。一方、昭和二十七年十一月大蔵省主催の全国 こども銀行指導者研究協議がこの地で催された際に地元資料として全国からの お客さまに紹介したところ大好評を得た。以来県下で何か全国大会如き催しが あると、いつもガリ版刷が請われるのが恒例となり、県の名物のようになった。
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