15 太子講吹雪

 昔あったけど。「貧乏人の子沢山」じゅあ、太子講さまのごとがしんなえ。小(ち)っちゃえおぼこ、ざくざくといで、食事時(ままどき)など忙しなえもんで、普通の箸では養いきんない。ほごで一間もあるよな長ンげえ箸こさえで、おぼご達の口さ運んでくった方ええどなたど。太子講の日にはどごの家でも長ンげえ箸ば神棚さまさあげんべ。
 太子講さまも初めは暮しもしかだながったふうだども、童達大きくなて、手かがらなぐなっと、だんだん溜てきて、後では裕福なてあったど。そのいわれで、さきの太子講十一月三日には、つましく小豆粥炊いで祝い、中の太子十三日には少しおごて小豆飯(あづきまま)、ほしてしまい太子二十三日は式の餅(白い餅)搗いて小豆餅にど、だんだん出世する。
 太子講さまは子供(おぼこ)えっぺぇ持たて言うなで、きっとお蚕さまの神さまでもあったんだ。養蚕家(ごけえおくえ)でや、うんと信仰厚がったもんだ。
 とごろで、太子講さま貧乏(しかだなえ)盛りん時だど。或時、日暮方なて、年老(としよ)た旅人がかたがて、軒隅でええさげ、一晩宿かしてくろて頼むけど。見れば吹雪の中を何ぼか難儀して、寒(さび)がったんだろ。まるで乾鱈(からげ)みでえに凍らせで、やっと辿りついだみでぇだけど。哀れだと思て、その年老(としより)ば抱くようにして、家ン中さ入れでな。囲炉裏端から童達ば追立てでおいで、どんどん薪焚(た)いであでだどこだど。
 この様子じゃ、きっとのごどで腹も空かしてんだろ。んだども、今いまて差上げる物は何も残て居(な)いし、米びつは底ついでる。借り行ぐにも隣は遠いなで困ったもんだ。
 待でよ。近ぐにある大家の畑に行ってみたら、穫り残しの大根屑でもないもんだがな、他人の物さ、ことわりなし手かけるじゅあ悪りごどだ。それは重々判ってんなだども、旅人どこ見っとむぞさえくて、背に腹はかえられなえ。これ一ぺんどうか許して下さえよどて、神さまさ詫びる気持で畑さ行てみだど。
 雪ば深くかぶた畑探して、やっと旅人の口しのぐ分だけ、大根みつけて掘て来たど。さっそく煮で、さし上げだべ。外(ほか)に何もご馳走てなえ、大根ばりだども、熱いどこ腹さ入っで、温まらせて勧めだれば、「おかげで生き返った気持する。うまいうまい」て、喜んで食うけど。
 一晩中、大吹雪吹いで、次の朝まなたれば、太子講さま、畑さ行た足跡など、ぺろっと埋まて、わからなぐなてしまたけど。ほれがら太子講の日ていうど、きっと吹雪ついで大荒れなっけど。人はこれば「太子講吹雪」ていうど。
 どんべからんこ なえけど。

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