1 狐むがしのもと

 爺さまが囲炉裏(ゆろり)の横座に座り、可愛(めんこ)い孫っこを胡座にのせて、昔話をきかせる。語りがはずんで、狐むがしが出るようだと、ほどの火を遠巻きに夜鍋に精出しながら、一緒に耳を傾けていた若達(わかだち)も、傍からそれをさらって花を咲かせる。そして一段と話をふくらませては、大人の民話に組替えてしまうこともあったろう。そんな香りのする狐むがしが、民謡の里、安楽城でもいくつか伝えられていた。ここにその素材を掃き寄せてみる。
 「馬の止動、狐の困快」と、よく喩(たと)える。馬を扱うときに「歩(あ)べ」という掛声はシーで、つまり「止」。逆に「止まれ」と静止を命ずる時は、ドーといい、文字で表わせば「動」で、どちらもアベコベである。一方狐の鳴き声というか、叫びが、コンコンときこえてくるようだと、天候は快晴に向い、カイカイと、まるで物を引き裂くような音をたててきこえるときは、大荒れの兆。大方は吹雪となる。「困々」のときと、「快々」とが実際とは逆の現象を呈するという。ともあれ、往時は狐の叫び声が天気予報にもされたぐらいに、狐は人間の近くに生棲していたということになる。
 村境を人形立場と呼んでいる。疫病(やんめえ)追(ぼ)いの時、ここまで追って来て、藁人形を捨てた名残で、そう言う。大体は「馬捨場」ともいって、付近に家畜の埋葬地もあった。昼でもうすら淋しい環境にあって、そこの窪地(ひこたぶ)を流れる沢は、表嶺にある狐穴から大川や人里に出る狐道でもあった。ここでよく狐火が見えたとさわがれたものである。狐火は狐が口にくわえて運ぶ獣骨が「鬼火」になるのだとか、狐の唾が光ってみえる、あるいは鳥類の羽毛が青い火に見えるとか、諸説紛々というところである。
 その狐火が点滅しながら行列をつくって移動するのを見る。これを「狐の婚礼(むかさり)」と呼んだ。囲炉裏にかけた鍋釜の底から自在鉤(かぎのはな)を伝って釣鉤(そらかぎ)の煤まで、火が点々と燃え移るさまも、狐の婚礼という。また田んぼ一枚向う側が、さんさんと陽がさしているというのに、いくらも隔たない手前側にかだだがかかる。馬の背中半分で晴雨が分れるなどという時は、これまた狐の婚礼て、童(わらし)たちは、こう囃した。
    雨の中から
    金太さんと銀太さんが
    見えるよー
 こんな時に井戸のふたをとって底をのぞこめば、よく「むがさり」の様子が写って見えると語られた。
 よく小豆とぎとか、米とぎとか呼ばれた名代の人騙し狐がいた。これはザルで小豆や米をとぐ音を聴かせて街をかけるという狡猾な狐である。大沢・差首鍋地区に棲む代表的な悪狐をうたいあげた童たちの「戯(ざ)れ唄」にも、その名が残る。
    猪の沢の米とぎ 猿渕の笊狐(ざるご)
    朴野のよしのに 騙さっちゃ 騙さっちゃ(大沢弁)
    北沢の仁兵衛 丸山の万九郎
    小橋の小豆とぎに 騙さいだ 騙さいだ(差首鍋弁)
 人通りのない所を、夜道などかけた時、米や小豆をとぐよな音を耳にしたら、要注意である。狐が好物の生臭(なまぐさ)物を身につけた人を狙う時は、まず舌なめづりするように爪をとぐのが本性である。後になり先になりして追いかけてチャンスを狙う。そうしては傍の立木に寄りすがって脚の爪をとぐ。一方、尻尾でまわりを叩(はた)く。そのはずみに「ザクトン、ザクトン」となって、まるでザルの中で穀をといでいるのとそっくりに聞こえる。人の気を散らす一つの術なのかもしれない。
 田楽飯(みそつけまま)と納豆は山仕事の弁当(ひる)に持って行くものではない。山神さまがお嫌いであるから、災難にあうといけない。それに狐が田楽飯が大好物で、その臭いをかぎつけると、たまらなくなり、白昼でも人にいたずらするという。
 行きなれた山道でも、どうかすると歩き続けた時間のわりには、いっこうに目的の地に進んでいない。迷って、前の場所に出もどったりするようなことがあったら、まず狐にいたずらされてると思ってよい。そう感づいたら、じっと我慢して立止り、タバコに火をつけるなり、まわりの枯草、枯木などを集めて、火を焚(た)くなりして時をかせぐと、だんだんに目の前が晴れてくるものである。
 狐とばかりは限らない。魔物につかれて騙されたと思ったら、あせって騒ぎまわらず、心静めて、股のぞきをして、相手をのぞきこむと、正体が読めるという。
 狐が人間に化けて出たのだと思ったら、機を見て相手の手首を固く握んでみるとよい。変身したものなら、手首のこぶしのひっかかりがなく、握った手がすっぽり抜けてくる。そこで正体が見破れる。
 狐が美人に化けて人を騙すときは、二匹が肩車になる。まるで落語の「二人羽織」であるが、酒酔人がだまされる多くは、この美人狐にである。横の口と下の口のところが、本物の口にあたるところである。そこから推して急所をねらって打ちのめせばよい。
 狐は利口なようでも、畜生のあさましさで、どこか足りないところがある。ある時、生馬に化けて人を騙そうとした。姿形はそっくり変身できても、本性は肉食だから、青草は口にしない。そこを知恵者に見破られて尻尾を出したという。
 狐が人間を騙してつれ込む建物には天井がない。どんな豪華な接待をされようとも、天井を見上げれば、青天井であるところから直ちにわかる。また、屋敷に花を植えてない家に宿とるな― 畜生や化物に草花の鑑賞眼などあろうはずがない。花のないところなら、騙されてるか、化物の棲家に迷いこんだにちがいないというのである。
 本当に賢い人と、また反対に阿呆な人には、狐の神通力(えずな)はきかない。とにかく酒酔人とか、小利口(りこう)な者になると、すぐ欲に走り、衝動的になって騙しにひっかかるという諭(さと)しである―。ともあれ、数々の素材から考えて、「狐むかし」は大人の好きな民話でもあったことがしのばれる。

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